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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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中国の副主席が、「1か月ルール」の原則を破って、天皇陛下に謁したようです。
最近報道されているとおり、外国の使節が天皇陛下に謁見を望むなら、1か月前に申請しなければならないという宮内庁のルールを、民主党がゴリ押しで破ってしまった。
 
天皇に関する議論は、どうしても、政治的になりがちですが、ここでは極力、法解釈の見地から書きます。
 
民主党の小沢幹事長は、天皇陛下の政治利用だ、という批判に対して「天皇は内閣の助言と承認のもとに国事行為を行う、と憲法に書いてあるのだから、問題はない」と答えた。
 
確かに、憲法7条にはそう書いてあって、その9号には、国事行為の一つとして、「外国の大使・公使を接受する」とある。
だから今回の謁見は、形式的には、憲法7条9号に基づいていることになります(一方、「1か月ルール」は宮内庁が勝手に決めた「お役所の内部通達」に過ぎない)。
 
しかし、日本国憲法が天皇の行為を内閣の助言と承認のもとに置いたのは、天皇が「象徴」としての存在を超えて政治的権力を行使しないようにチェックするためであるはずです。
 
天皇が政治的存在にならないよう、内閣が助言と承認を行う、というのが本来の趣旨であるはずなのに、民主党がやったのはその正反対の、天皇に政治的・外交的働きをさせるために助言と承認を行う、ということなのです。
 
ここで思いだすのは、明治憲法下の「統帥権干犯」(とうすいけんかんぱん)問題です。
明治憲法11条では、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」となっていたのですが、明治憲法も当時の立憲君主制の考え方(外国のことわざで言えば、「王は君臨すれども統治せず」)に基づいてできたものなので、天皇が積極的に軍隊を支配し動かすようなことはなかった。
 
だから軍部が天皇の名を借りて軍事独裁を強め、それに口出ししようとすると「天皇陛下の統帥権を犯すつもりか」と言って黙らせた。
 
立憲君主制のもとでは、国政に関する判断は、天皇を輔弼(ほひつ。施政を助けること。明治憲法55条)する内閣が行うべきなのですが、軍部は、統帥権の判断権限が憲法上明確でないのを良いことに、それは軍部のみにあるとした。それが軍部の暴走を許し、第二次大戦に突き進む一つの原因となったのです。
 
現在の日本国憲法においても、条文には明確に書かれているわけではないけど、憲法の趣旨や成り立ちからして、守らなければならない大原則があり、その原則に照らして、やってはならないことがあるはずです。
 
今回、民主党は「内閣が助言と承認さえすれば、時の政権の自己都合で天皇陛下をいかようにも利用できる」という、本来ありえないはずの憲法解釈を実行に移したのです。
民主党の、憲法や天皇に対するこの態度を、私は決して忘れないでおこうと思います。
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ネットニュースで見たのですが、東京で「弁護士バー」というのが開業されようとしているそうです。
 
若手の弁護士がバーテンダーとなって接客し、客の相談にも乗るとか。訴訟など実際に事件として扱う場合は、別途その弁護士の事務所で正式に委任することになるようですが、顧客の間口を広げるきっかけにはなるでしょう。
もっとも、東京の弁護士会は、望ましくないものとして開業を取りやめるよう働きかけているらしい。
 
若手弁護士にとっては、依頼者獲得のきっかけになるし、利用者にとっても気軽に相談しやすい。でも旧態依然たる弁護士会が圧力をかけている、かのように見えます。
 
私自身、バーでお酒を飲むことは大好きです。でも、「弁護士バー」、私は反対です。
 
まず、バーでお酒を作ったり接客したりするのは、一つのプロの仕事です。
弁護士の肩書きがあるだけで、さしたる修業もせずバーテンダーをやるのは、きちんとバーをやっている人に対して失礼だと思っています。
 
もっと大きな理由は、「酒場で請けおう相談ごとにはロクなものがない」ということです。
 
私自身、独身時代は、仕事のあとに一晩に5軒ほどバーをハシゴすることもザラでした。なじみの店では、店主や常連に私の職業が分かっていることがあります。
そんなとき、居合わせた人から「ちょっと聞いてほしい」と相談を持ちかけられることもありましたが、そういう場合の相談は、「痴話ゲンカに過ぎず、法的にはどうしようもない」ケースであるのが大半です。
 
たまに、法的トラブルと言えるものもありますが、その場合は、「解決のためには相応の手間と費用が必要だけど、当事者はそこまでの覚悟がない」というケースばかりです。
酒場での相談ごとは、以上2つのケースに大別できます。
 
法律相談の間口を広くしたい、これは私も同感ですが、トラブルを解決するためには相応の覚悟が必要です。ちょっと酒でも飲みながら相談を、という程度の気持ちの人から依頼を受けて、果たして最後まで責任を持って事件を処理できるのか、極めて疑問です。
私自身、酒場の相談の延長で依頼を受けてしまい、依頼者が途中で所在不明になったとか、所定の費用や報酬を払ってもらえなかったという経験が何度かあるのです。
 
「そこまで深刻な相談でなくても、ちょっと話を聞いてもらえるだけでも、弁護士バーの存在意義はあるんです」と考える方もおられるだろうけど、それなら、キャバクラでキャバ嬢相手に愚痴っていたほうがまだ健全な気がする。
 
弁護士バーは、お酒も接客も中途半端、法律相談するには場としてふさわしくない、そういう意味で、バー好きの弁護士としては疑問に思っています。
弁護士の仕事の一つとして、市役所や弁護士会での相談窓口で相談を受け付ける、というものがあります。私も年に何回かその相談当番の日があります。
 
最近、相談窓口にいて実感するのは、「過払い」の返還請求の相談が増えたということです。サラ金業者に多く返し過ぎた利息を取り返すという、最近テレビや新聞でよく広告を見かける、あれです。
 
一昔前は、「過払い」なんて私たちの世界だけの業界用語でした。一昔前なら、借金の負担を抱えた相談者がやってきたら、
「返しすぎた利息は、取り戻せることがあるんですよぉ~」「ええっ、本当ですかぁ?」「はいっ、本当ですっ」
などと、テレビのCMみたいな会話が繰り広げられていました(まあ、答えているこちらはオペレーターのきれいなお姉さんではなくて、オッサンの弁護士ですけど)。
 
今では、相談者のほうから「『過払い』の件なんですけど」と普通に持ちかけてくることが多いです。
 
このように、過払い金の返還請求が非常に増えた結果、中小のサラ金業者はどんどん潰れており、大手でも危ういところもあるようです。
 
実際、2、3年ほど前なら、弁護士がサラ金業者に過払い金の返還請求をすると、法律で決まっている以上は素直に返してくることが多かったのですが、最近は、金額を大幅に値切ってきたり、支払いを数か月先にしてくれと言ってきたりするのがほとんどです。
対応が遅いため裁判を起こして請求することもザラにあります。
 
一部の弁護士や司法書士が派手に宣伝してくれたおかげで、宣伝していないウチの事務所にも依頼者が来てくれる、という話を以前も書きましたが、全国的にあまりにそういう依頼が増えすぎて、解決までに手間と時間がかかる事態になっているようです。
さらにサラ金業者が倒産してしまえば、過払い金の回収もほとんど不可能になるでしょう。
 
庭に飛んでくるスズメは、少しなら赴きがあるが、増えすぎるとやっかいである。人の世の中にも、似たようなところがある。
そういった趣旨の話を、たしか池波正太郎のエッセイの中で読んだ記憶があります。
 
過払い金の返還請求をするときに、その話をいつも思い出して、ちょっとした矛盾のようなものを感じたりもします。
しかしその矛盾を生じさせた理由は、元はと言えばサラ金業者の高すぎる利息にあるわけで、私としては今後も依頼がある以上は、その返還請求にいそしむことになるでしょう。
米兵の子供の少年たちが道路にロープを張って、バイクで通行していた女性が転倒し大ケガした事件で、警視庁は4人の少年を逮捕したとか。
 
この事件、米側が一時少年の身柄引渡しを拒否したという、国際法的、政治的な問題も含んでいますが、ここでは、少年たちのしたことが本当に殺人未遂にあたるのか否かという点について、純粋な法解釈の問題として述べてみます。
 
殺人未遂とは、他人に対する殺意を持って、人を殺害する行為を行ったが、結果として人が死ななかった状態を言います。
 
車の往来する公道にロープを張るなんて、常識ある人が見ればきっと「そんなことして人様が死んだらどうするのっ!」と怒るであろう危険な行為であり、少年たちだって、そんなことくらいわかっていた。
しかし、だからといってこれが殺人未遂にあたるかというと、疑問を感じます。
 
私が知っている実例では、こんなケースがあります。
とあるマンションの高層階に住んでいる男性(成人)が、気分がムシャクシャして、隣家の屋根に大きな石を投げ落とした。石は民家の屋根を突き破り、その床まで落ちた。
幸い、屋根の下に人はおらず、ケガ人はいなかったのですが、警察はこの男性を殺人未遂罪で逮捕した。
 
しかしその後、検察はこの事案を単なる「建造物損壊罪」で起訴しました。担当の検事は、「殺意」や「殺害行為」まで認められないと考えたのでしょう。
 
何を持って刑法上の殺意や殺害行為と捉えるかという議論までは触れませんが、少なくとも、殺人罪や殺人未遂罪の責任を問うためには、「そんなことして人様が死んだらどうするの」という程度の行為では足りず、もう少し明確で具体的な生命への危険を要すると解されます。
 
では、冒頭のような行為は、どのように裁かれるべきか。
本件は少年法が適用されますから、成人のケースとは異なってきますが、これが成人なら、往来危険罪(刑法124条、2年以下の懲役)と傷害罪(204条、15年以下の懲役)を適用して、上限で懲役15年まで科することができるので、それなりに重い処罰ができる。
 
一方、殺人未遂だと、適用される条文は殺人罪(199条、203条)で、いちばん重くて死刑。「未遂」というのは「軽くしてやっても良い」というだけなので(43条)、当然軽くなるわけではない。本件は冷静に考えて、死刑を含めて検討すべきほどの事案であるとは思えません。
 
米兵の子供らのしたことは、間違いなく悪質な行為であり、個人的感想としては「やはりヤンキーはアホ」と私も思うのですが、だからと言って「殺人」の解釈を緩やかにすることを認めてしまうと、いずれは私たちにそれが跳ね返ってきます。
たとえば、皆さんが車を運転中にエンストして、仕方なくその場に車を止める行為だって、殺人未遂になりかねないのです。
 
この事件を、検察はどう扱うかは知りませんが、私の解釈では、殺人未遂ではなく、往来危険罪プラス傷害罪でよいと考えています。
押尾学にまたも、麻薬取締法違反で逮捕状が出ました。
 
この事件、こないだ執行猶予判決が出て終わったんじゃないの? と思った方もおられるかも知れませんが、前回のは麻薬の「使用」で、今回は「譲渡」です。同じ麻薬取締法ですが、使用と譲渡では条文が違うので、別の犯罪とされる。
 
憲法には、一度裁かれたら同じ罪で裁かれることはないという「一事不再理」の原則が定められていますが、別の犯罪なのでこの原則は働かない(法学部生向けに注。公訴事実の同一性の範囲では一事不再理効が及びますが、使用と譲渡は併合罪ですから、範囲外となります)。
 
押尾学の容疑は、ご存じかと思いますが、六本木ヒルズのとある密室で女性にMDMA(合成麻薬)をあげて(譲渡)、自分も飲んだ(使用)、というものです。
 
常識的には、譲渡と使用は一体の行為で、先日の裁判で麻薬のことは終わってるんではないか、譲渡のほうも裁くというなら、前の裁判のときに合わせて起訴しておくべきだったのではないか、とも思えます。
 
刑事訴訟法の教科書には、こういうケースは一事不再理を及ぼすべきだ、という見解も出ていますが、それはあくまで学者の議論で、判例・実務は別々に裁くことができるとしています。
 
もっとも、だからと言って、こういう形での再逮捕・再起訴は異例のことで、滅多にないと思われます。
常識的にみて一体の行為を、後から追加で起訴するのは、裁判所にとっても二重の手間になるし、警察・検察としても自ら「私たちには迅速な捜査能力がありません」と言っているのに等しいからです。
 
今回の異例の再逮捕の理由は、報道されているとおり、一緒に麻薬を飲んだ女性が亡くなっている件について、保護責任者遺棄致死罪で再逮捕するためでしょう。こっちのほうはまだ証拠が固まっていないから、麻薬譲渡で逮捕しておいて、保護責任者遺棄致死の証拠を固め、自白を取るのが目的だと思われます。

これは違法な「別件逮捕」ではないか、との疑問も出てきますが、その議論は置いておきます。
 
最後に、いま「再逮捕」と書きましたが、逮捕状が出たのが12月4日ころで、現時点(6日)で押尾学は逮捕されていません。
その理由は知りませんが、警察が今さら押尾学を取り逃がすとも思えないので、押尾学の名誉のために、任意で警察署に出頭するよう警察が呼びかけているところなのではないかと想像しています。

リンゼイ・アン・ホーカーさんの死体遺棄容疑で逮捕されていた市橋容疑者が、今度はリンゼイさんに対する「殺人、強姦致死」の容疑で再逮捕されたと報道がありました。

「再逮捕」というと、逮捕されていた人がいったん逃亡して、再び身柄確保されたというイメージを持つ人もいますが(以前、ある作家も週刊誌でそう言ってた)、

これは、死体遺棄容疑で逮捕(72時間)・勾留(20日間)できる期限が切れたので、殺人・強姦致死のほうでも引き続き捕まえておいてよい、というお墨付きが裁判所から出たことを意味し、市橋は別に逃亡したわけではありません。
 
複数の犯罪の容疑がある場合は、証拠の上で明らかなほう(通常は軽いほうの罪)でまず逮捕しておいて、その期間中に別罪(重いほうの罪)の証拠を固めておいて、再逮捕するというのが警察の常套手段です。
 
で、今回の逮捕容疑なのですが、違和感を持った方はおられないでしょうか。
「殺人」と、「強姦致死」です。
 
この事件の被害者はリンゼイさん1人です。市橋は、抵抗されたら殺してもよいと思いつつ、リンゼイさんを犯し、そして殺害した、と疑われている。
犯した末に死に至らしめたのであれば、「強姦致死」のみでよいのではないか。
 
これは、強姦致死について定める刑法181条1項が、刑罰として「無期または3年以上の懲役」と定めていることに原因があります。つまり、死刑を選択できないのです。どんな悪質なケースでも、最も重くて無期懲役にとどまる。
 
だから、それにプラスして、殺人の条文(199条)も重ねて適用する。殺人罪には死刑も定められているからです。
 
となると、別の疑問も生じます。
だったら、「殺人」と、「強姦」を重ねて適用すればいいのではないか。
「殺人」と「強姦致死」だと、何だか1人の女性を「2回」殺しているような形になる。
 
これにも、いちおう理由はあるのですが…細かくなる上に、面白い話でもないので、割愛します。こういう話が面白いと感じた方は、司法試験に向いているかも知れません。
 
リンゼイさんのご冥福を祈ります。

先日、週末に妻と子と散歩がてら近所の商店街まで行ったとき、近くの病院に子連れの母親で人だかりができているのを見ました。ちょうど新型インフルエンザのワクチンの優先接種が開始された時期でした。

 
私ごとの話が続きますが、うちの息子はあと1か月で1歳になります。
予防接種の類は、役所で勧められた最低限のものだけにして、インフルエンザの予防接種は受けていません。どうしようか考えているうちに時期を逸した、というのが実情ですが、それだけでなく、効果のほどに疑問を感じているのが大きな理由です。
 
予防接種をしても感染を必ず防げるわけではなく、聞いたところでは、「感染した際の重症化の可能性を低める」ということでしかない。
とすれば、子供の食事や睡眠などの健康管理をきちんとするといった、当たり前のことを続けるのと、効果の面で大した差はないはずです(子供の健康管理はもっぱら妻に任せてしまっていますが)。
 
それだけではなく、薬や注射というものには、副作用がつきまといます。
憲法や行政法の教科書にはたいてい、予防接種を受けた子供に死亡や後遺症などの重篤な副作用が生じ、国が補償金を出した、という判例が紹介されています。

一説には、予防接種による副作用は、どんなに注意しても一定数は必ず生じてしまうもので、「悪魔のくじ引き」とも言われていると、何かで読んだ記憶があります。
現に最近、接種を受けた高齢者が何人か死んだとか、外国製のワクチンで副作用の報告が出たとかいう報道に接しました。
 
このように、感染を確実に防げるわけでもないし、却って一定の確率で副作用が生じるというのであれば、接種を受けない、というのも合理的な選択であるように思えます。
 
さて、うちの子の予防接種の話を長々続けてしまいましたが、それは本題でなく、ワクチンに群がる人たちの心理が、ちょっと理解しがたいということを言いたかったのです。
 
「健康」とか「幸福」といった目的の実現のためには、いくつもの方法が存在しえて、そのいずれにもメリット・デメリットがある。私たちは、自分でそれを考えて、いかなる方法を取るかを決めないといけないのだと思います。
 
インフルエンザの予防という目的のためには、予防接種が唯一で絶対の方法ではなく、むしろ副作用などのデメリットもある。その良し悪しを考えて、接種するか否かを判断し、その結果に責任を持つ。
予防接種をしないせいで子供が重いインフルエンザにかかるかも知れないし、接種したせいで副作用が生じるかも知れない。でもその結果は親が受け止めないといけない。

ただ単にワクチンに群がるのは、一種の思考停止であるように思えます。
 
同じことは、最近の「これをやれば頭が良くなる」といった脳科学ブームや、少し前の話なら「納豆でやせる」というガセ情報で納豆が品薄になってしまった、という話にも言えます。
一定の情報にすぐ乗せられてしまうのは、誰かが情報操作をしようと意図した際に、非常に危険な事態になりうると思うのです。
裁判員が被告人に「むかつく」と発言した話について、続き。

これは、裁判官による裁判であればありえなかった事態です。
たしかに裁判官の中には、被告人に対し訓戒をたれたり、叱るような発言をしたりする人もいる。しかし裁判官がこれをやる場合は、相当に節度を守って、被告人に対する敬意を失わずにやっています。

それは裁判官が、プロとして訓練されているからであり、もっと大きな理由としては、人が人を裁くことの難しさを分かっているからです。

ある程度は同じ勉強をしてきた私たち弁護士や、検察官の人にもこれは言えます。司法試験受験生や司法修習生の時代に、ふと、「そもそも犯罪とは何なのか」とか「どうして人が人を裁くことが許されるのか」といった根本的なことが気になることがあります。

裁判官として人を裁く立場になった人たちなら、その問いはますます深刻なものとなり、一生、頭を悩ませることでしょう。

加えて、刑事裁判は時に「冤罪」を生む。間違いなく犯人と思われていた人が実はそうではなかったという例は、特に近年、無期懲役判決を受けて服役していた菅谷さんの件を筆頭に、少なからず挙げることができます。

困難で大きな問題を前にして、それを扱わんとする人は、自ずと謙虚になる。
「むかつく」などと感情のみに走った発言をすることはないはずです。

もちろん、裁判員制度は、そういった職業裁判官の視点と異なる、国民一般の常識というものを刑事裁判に吹き込むために導入されたものです。
しかしここで言う常識とは、真っ当に生きる一国民としての「良識」を指すはずです。

「被告人には腹が立つ、何でもエエから好きなこと言うたれ」というのは、多くの人が感じる、一般的な意味での「常識的」な感覚かも知れないけど、裁かれる人を前に「むかつく」などと発言するのは「良識」には全く欠けます。
被告人が制裁を受けるのは、有罪判決が確定して刑務所に行ってからであって、法廷では、節度と良識を持って扱われるべきです。

前々回に書いたように、裁判員裁判には、専門家同士の慣れ合いではなくて、セオリー通りに訴訟が進むようになるという、望ましい点がある反面、良識に欠ける人が不可避的に裁判に加わってしまうことになるという難点もあります。

この制度がうまく行くかどうか、現場の裁判官たちは、まだまだ綱渡りの運営を強いられるのでしょう。
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