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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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草なぎ剛の事件について、続き。

前回、この問題が刑事裁判になったらどのあたりが争点になるか、といった話をしましたが、この事件は今どんな状況にあって、今後どうなるのかについて触れます。

ご存じのとおり、現在彼は釈放されています。

警察は、容疑者を逮捕したら、48時間以内に検察に送ることになっている。警察段階で釈放されれば、書類だけが検察に送られますが(いわゆる書類送検)、この件では草なぎは逮捕されたまま、検察に送られたようです(これを身柄送検ともいう)。

身柄送検を受けた検察は、24時間以内に勾留するか、釈放するかを決める。勾留されると10日や20日といった長い間、留置場などにいることになりますが、この件では、この段階で釈放が選択された。

と言っても、この件についてはお咎めナシ、無罪放免で終了、となったわけではありません。

送検を受けた検察は、その事件を起訴するかどうか決めないといけない。検察官が「不起訴」と決めるとそれで事件は終了となりますが、起訴されるといよいよ「被告人」となって、前回書いたような弁護側と検察側の争いになる。

起訴か不起訴か、これから検察が取調べをして決めることになる。それまでの間、勾留しておかなくても逃亡することはないだろうからということで釈放されただけで、事件はまだまだ終わっていません。

では、起訴・不起訴はいつ決まるかというと、それはわかりません。
容疑者が勾留されている場合は、勾留期間が20日までと決まっているので、それまでに決定が下されることになりますが、勾留されていない(在宅といわれる)場合は、期間制限がない。

おそらくたくさんの重大事件を抱えている東京地検の検事としては、こんな事件は後回しにしたいと思っているでしょうから、決定までにしばらく時間がかかるはずです。

と、現在の状況を説明しているうちに長くなりましたが、果たして逮捕は妥当だったのか否か、その点については次回に触れます。
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SMAPの草なぎ剛が公然わいせつ罪で逮捕された件について、前回、芸能ネタはあまり書かないと言いましたが、もう少し書きます。

まず前提として、公然わいせつ罪について。
公然とわいせつな行為をした者は、6か月以下の懲役または30万円以下の罰金と定められている(刑法174条)。

誰もいない夜の公園で裸になったとして「公然」にあたるかというと、解釈上は当たるとされています。
公然とは、「不特定または多数人が知りうる状態」であることを指し、実際に多数の人が見なくても、そうなる可能性があればよい。
公園だから、いつ誰が見るかわからないし、この件では実際、周辺住民から警察に通報があったわけだから、公然性はあったといえる。

では、「わいせつな行為をした」と言えるか。
わいせつな行為とは、判例での定義上、「①本人または他人の性欲を刺激興奮させ、②普通人の性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反すること」とされています(少し端折ってます)。
人が街なかで裸になっているのを普通の神経の人が見れば、「恥ずかしいものを見てしまった」と思うだろうから、②は満たす。同時に③も満たすとして良いでしょう。

では①の部分は満たすか。露出狂(本人の性欲を刺激する)や、ストリップショー(他人の性欲を刺激する)などが典型的に想定されていますが、「酔っぱらって脱いだ」という状態がそれにあたるか、いちおう問題にはなるでしょう。

SMAPの草なぎクンの裸だから、喜ぶ女性ファンもいるだろう(他人の性欲を刺激する)と考えることもできるし、そういうことを抜きにしても、本人も脱いで爽快だから脱いだはずだし、露出狂とは次元が全く違うにしても、「本人の性欲を刺激する」と言えるようにも思う。
いや「爽快」というのと「性的興奮」は違う、という立場もあるだろうから、この点は、将来この事件が起訴されれば、検察側と弁護側で争いになるところでしょう。

さらには、酩酊状態で、脱いだ時点では正常な精神状態ではなかったということで、刑法39条により、心神喪失で無罪、または心神耗弱で刑が減軽されるということにならないか。

しかし刑法39条は世間で思われているほど便利な条文でなく、それが適用されるには長い裁判と度重なる鑑定を経なければならない。
何より、天下のアイドル草なぎクンに刑法39条が適用されるなんて、それによるイメージの低下のほうが深刻でしょう。刑事裁判になっても弁護側がこれを持ち出してくるかどうかは微妙なところです。

次回に続く。
今朝、自宅のパソコンからこのブログにアクセスしようとすると、エラーが出て、「そんなページは存在しない」と言われました(「Not Found」っていうのが出た)。

それで、ブログが削除されたのだと思ってしまいました。
私が日々書いているブログの内容が、特定の人にとって望ましくないものであり、それでその人が「忍者ブログ」管理者に圧力をかけて削除させたのかと、一瞬だけ考えてしまいました。

ほどなく、またアクセスできるようになりました。何かが原因で一時的にアクセスできなかっただけであったようです。考えてみれば、規模的にも内容的にも大したことないブログなので、誰かがわざわざ圧力をかけるようなことは考えがたいわけでして。

規模はぜんぜん違う話ですが、タレントの北野誠が芸能活動を自粛させられてます。
私としてはこの人、「探偵ナイトスクープ」で中途半端な調査をする人、というイメージしかないので、テレビ・ラジオから消えても何とも思わないのですが、「何が問題でそうなったのか」という過程が一切伏せられている点に、不気味なものを感じます。

故・伊丹十三がヤクザのことをネタにした「ミンボーの女」を監督した後、暴力団員に襲われたとき、「私が描いたのが本当のことだから、彼らも黙っていられなかったんだろう」といった趣旨の発言をしていたことを思い出します。

北野誠のどの発言が問題になったのかは知りませんが、それがウソであるなら、無視しておくか、またはその発言を取り上げて名誉毀損で訴えるなどすればよかった。
そうでなくして、問題となった発言を封殺したまま活動を自粛させたわけでして、それはきっと、北野誠の言ったことが、特定の人には不都合な「本当のこと」だったからでしょう。

物理的な暴力を使うかどうかが違うだけで、本質的なところは、伊丹十三の一件と通ずるものを感じます。

芸能ネタはあまり触れないつもりですが、ついでにもう一つ。
草なぎ剛が公然わいせつで逮捕されました。検察官に送致され、勾留は免れて釈放されたようですが。

一部の狂信的なファンが、警察署に抗議の電話をしたとかで、これも不気味な話です。自分の納得できないことについて、目に見えない形で圧力をかけようというその考え方が醜悪です。

当ブログは弱小なだけにそういったことに無縁と思われますが、何らかの技術上の問題でアクセスできなくなったりしたら、左にリンクしてあります個人サイト(http://www.yama-nori.com/または「山内憲之」で検索)へお越しください。
刑事事件の話が続いていますが、今度は「足利事件」という、これまた「冤罪」の可能性が指摘されている事件についてのお話。
DNA鑑定の結果、事件現場に残っていた犯人のDNAと、被告人のそれとが一致しないと判明したらしい。

この事件は、平成2年、足利市で女児が殺害され、容疑者として50代の男性が起訴されたものです。

1審(宇都宮地裁)ではDNA鑑定が行われ、現場に遺留された女児の下着についていた犯人の精液のDNAと、被告人のDNA(毛髪か血液などから取ったのでしょう)が「一致した」として、無期懲役の判決。
2審(東京高裁)そして最高裁もそれを支持して、無期懲役判決が確定(平成12年)。

弁護人は再審請求を申し立てたが、宇都宮地裁は棄却、東京高裁でさらに争われることとなり、東京高裁は改めて鑑定人に鑑定を依頼した。すると今回、DNAが「一致しない」との結果が出た。今後は再審が開かれる可能性が出てきました。

これも、非常に怖い話ではあります。
DNA鑑定だとか、科学的捜査だとか言われると、100%真実がわかるかのような印象を持ってしまいがちですが、その科学技術も所詮人間が作ったものですから、絶対ではありえない。

あとからひっくり返るかも知れない手法なのに、絶対的に正しいかのように扱われ、有罪・無罪を決められるのは非常におそろしい(いちおうフォローしておくと、足利事件判決はDNA鑑定だけを証拠として有罪としたわけでなく、他に証拠もあるのですが、それでも、DNA鑑定が決め手の一つになったのは事実でしょう)。

「指紋」が一致したとかいう話であれば目で見てわかりますが、DNAが一致したといっても、これは細胞の中の染色体の塩基配列が何とかかんとか、そういう話でして、DNA鑑定書なるものを私も見たことがありますが、書いてあることがわからない。

科学技術は日々進歩しているとはいえ、足利事件が起きたのが上記のとおり平成2年、最高裁がその有効性を認めて上告棄却したのが平成12年です。
平成の世に入って行われた鑑定結果なのに、早速ひっくり返される。ならば今ある科学的捜査というものも本当に信用できるのか、といった疑問が当然生じてくるわけです。

かくて科学的捜査の結果というのは、一見信用してしまいがちな部分があるだけに、慎重に懐疑的に扱われる必要があると思います。

たまに、DNA鑑定の発達を理由にして、何十年前の事件でも鑑定すれば真犯人がわかる、だから刑事裁判の時効制度は廃止すべきだ、という主張を聞きますが、その鑑定結果が10年やそこらでひっくり返るわけですから、やはり慎重な姿勢を崩すべきではないと考えます。
最高裁の痴漢事件無罪判決の異例さについて、続き。

最高裁が原判決を破棄したところまで書きましたが、さらにその上で、自ら無罪判決を出したのも注目です。

最高裁は、基本的には「事実がどうであったか」ということにはタッチせず、「法律の解釈が間違っていないか」と言う点を審理するところです。そのように争点を絞らないと、全国に1つしかない最高裁の機能がパンクしてしまうからです。

だから、原判決に誤りがあったとしても、それを指摘した上で、「こういう観点から事実を審査しなおしなさい」として、事件を高裁に返すにとどまることが多い。これを「破棄差戻」(はき・さしもどし)といいます。

しかし今回は、審理をもう一度やり直すまでもない、事実は明らかだ、ということで、最高裁自ら判決を下した。これを「破棄自判」(はき・じはん)と言います。
つまり、被害者女性の供述を信用し、被告人を有罪とした原判決の重大な事実誤認は明白であり、差し戻すまでもなく無罪は明らかだ、と言っているわけです。

そこまで言われると、有罪判決を出した地裁・高裁は、まるで立場がない。
最高裁があえてそういう踏み込んだ判断をしたのは、刑事裁判、特に本件のような痴漢犯罪の裁判において、それほどまでに、客観的証拠を軽んじ、「証言」の信用性のみを偏重した審理が行われていたということなのでしょう。

ちなみに、無罪判決を下した最高裁・第3小法廷は、最高裁判事15名のうち5名で構成されています。その中で裁判長を務めた田原睦夫判事は、弁護士出身です。ですから最初私は、田原裁判長が弁護士らしく、無罪の立場を押し進めたものと想像していました。

ところが実際は、評決は3対2、田原裁判長は「有罪」の評決に回っていたようです。
弁護士出身の判事ですら有罪と思う事件を、きわどい評決ながら、他の判事たちは無罪とした。判事たちがそれほど、現在の刑事裁判の審理に危機的なものを感じていたのかも知れません。

「100人の犯人を取り逃がすことがあっても、1人の無実の人を有罪にしてはいけない」と、刑事訴訟法の教科書には必ずと言っていいほど書かれています(あくまで「標語」なので、文字通りそう受け取っている裁判官は少ないでしょうけど)。
今回の無罪判決は、そういった刑事裁判の原点に戻れという最高裁の意思表示なのでしょう。
電車内での痴漢事件に最高裁が逆転無罪判決(14日)。

新聞、テレビで大きく報道されたので、皆さんご存じだと思います。
電車内で女性の体に触ったとして強制わいせつ罪で1・2審で有罪とされた大学教授に対し、最高裁は、被害女性の供述に信用性がないとして無罪判決を下した。

痴漢事件の審理の難しさ、微妙さが浮き彫りになったと共に、ホンモノの痴漢をどう取り締まったらよいかという点で問題を提起していると言えますが、ここでは、純粋に法律的に、この無罪判決の「異例さ」について触れたいと思います。

まず、刑事事件で最高裁に上告するためには、もとの判決が憲法や最高裁判例に違反しているなどの「上告理由」が必要です(刑事訴訟法405条)。

しかし本件では、被告人の大学教授が女性を「触ったか触っていないか」だけが問題で、憲法問題などは含まれていない。だから最高裁としては、上告を棄却して有罪とすることも充分ありえた。

もっとも、上告理由がなくても、一定の事情がある場合は、最高裁はその事件を取り上げて、原判決(もとの判決)を破棄してもよいことになっていて、その事情としては「量刑が著しく不当」だとか、「重大な事実誤認」などが挙げられている(同411条)。

刑事事件では弁護人がよくこれらの事情を主張して上告します。しかしこれらは本来の上告理由でなく、「取り上げてやってもよいけど、取り上げなくてもよい」という程度の事情にすぎない。だからたいていは書面審査だけで棄却される。

ちなみに、最高裁が、「重大な事実誤認」を理由にして原判決を破棄した事件にはどういったものがあるかと、刑事訴訟法のテキストを調べてみますと、二俣事件、八海事件、松川事件など、限られた、しかし著名な冤罪事件が出てきます(それぞれの事件の内容はここで触れませんが、興味があれば「検索」などしてみてください)。

もう一つついでに、データで見ますと、平成5年の数字ですが、刑事上告事件の件数は1年間で計1251件、そのうち書面審査だけで上告棄却されたのが実に958件(約77%)。原判決破棄はわずか1件(0.1%以下)です(その他は上告取下げなど。出典は田宮裕「刑事訴訟法」有斐閣494頁)。

ですから今回の事件も今後、著名な冤罪事件の一つとして、長く記憶されるものと思われます。

他にもいろいろ書きたい「異例さ」を含む事件ですので、その話はまた次回。
今回も雑談ネタですので、私ごとの話題から入ります。

元旦生まれのウチの息子が生後3か月を過ぎました。顔立ちがはっきりしてきて、父母どちらに似たのか、3か月の子にしてはかなり整った顔をしています。
先日は私の実家近くの神社でお宮参りをし、ささやかながらお食い初めの儀も行いました。
人の顔を見ると笑うようになりました。この子がずっと笑っていられる、そんな家庭と社会を作っていかねばと思っています。

そんな親バカ話はともかく、最近の新聞・テレビでよく見かけるのが、カルデロンのり子さんの問題です。
この中学生の女の子の両親・カルデロン夫妻は、かつてフィリピンから偽造パスポートで日本に不法入国し、のり子さんを出生して、そのまま一家で日本に住み続けていたらしい。

不法入国だから発覚した以上、強制退去は当然の話ですが、法務省の温情で、のり子さんだけは日本に留まれることになった。そして、カルデロン夫妻とのり子さんが空港で涙の別れ…という映像を、今朝のワイドショーで観ました。

私が驚きあきれるのは、カルデロン夫妻のしたことです。不法入国は犯罪であるとかいう話はこの際もうどうでもよく、この人たちは、きちんとした手続きも踏まずに海を渡ってきて、いつ捕まるかも知れないような状態で子を産み、日本の学校に入れていたわけです。

今朝私がワイドショーを見ている隣の部屋では、起きがけの息子がムニャムニャ言ってましたが、この息子を不法入国先で生んで、いつか退去を命じられるような状況に陥れてしまうなんて、私にはとうてい考えられないと、息子の顔を見ながら思っていました。

ちなみに私は、のり子さんがかわいそうだから一家3人を日本に置いてやるべきだとは全く思いません。その逆で、二度とこんなことが生じないよう、一家3人をフィリピンに強制退去させるべきだと考えます(法務省のやったことは甘い)。

それにしても、世間の耳目を集めるような犯罪事件が起こると、マスコミ特にテレビは、事件の動機や背景を明らかにしろだとか、犯人の心の闇を明かせだとかいうことを、警察や裁判所や、ときには私たち弁護士に求めたりするものですが、どうしてこの事件に関しては、「親子の涙の別れ」という次元の低い話ばかりしたがるのか。

カルデロン夫妻がした不法入国という犯罪がなぜ行われたのか、どうやって長年それを隠しおおせたのか、そんな状況で子供まで作ってしまった心の闇は何なのか、そして日本国内に同種の事案がどの程度存在するのか、そういったことこそ知りたいのに、そこは一切触れてくれない。
この事件についての報道を見るたびに、そんなもどかしさを禁じ得ません。
司法改革と法科大学院のことについて私の考えを書くといいつつ、そのままになっていましたので続きを書きます。

私が11年前に受けた司法試験は、今や「旧司法試験」と言われています。
旧試験はいわゆる「一発試験」で、一発と言っても、5月のマークシート試験、7月の論文試験、10月の口頭試験と3つをパスしないといけないのですが、とにかく1年のうちこれらに受かれば、「司法研修所」に入れてもらえる。そこで1年半から2年間の研修を経れば、よほど出来の悪い人でない限り、弁護士になれる。

今の「新司法試験」では、そもそもの受験資格を得るために、法科大学院に2年か3年通う必要がある。法科大学院に入るにももちろん、入試がある。旧時代は受験資格に制限がなかったのが、少し面倒なプロセスを踏む必要が生じたわけです。

「改革」の理由はいろいろありますが、よく言われるのが「旧試験時代は、一発試験を突破するためだけの知識の詰込みが行われていた」ということです。
主に受験予備校で行われていた「詰込みの弊害」を除去し、法科大学院に入れてじっくりとホンモノの法教育をするということのようです。

私自身は旧試験を受けたわけですが、知識の詰込みは、確かにしました。
六法(憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法)の全分野に渡り、用語の定義や、裁判所の判例や、条文解釈に関する学説について、試験本番のときにどこをどう聞かれても即座に答えられる状態にしないといけない。

私が司法試験に受かるために費やした勉強期間は約2年です。
「その間、1日にどれくらい勉強しましたか?」と今でも受験生によく聞かれますので、そのときは「だいたい9時間か10時間です」と答えていますが、白状しますと、これは受験生にショックを与えないよう少なめに言っているのであって、本当は1日に12時間くらい勉強していることもザラでした。

司法試験に受かった人は、ほとんど同じようなことをしているでしょう。ではそのことが、何らかの弊害をもたらしたと言えるか。
顧客のお金を横領するなど、不祥事を起こす弁護士はたまにいますが、「受験期の詰込み教育が原因」でそうなったようなケースはないはずです。

「受験勉強に長期間を費やすために人間味や社会性が失われる」ともよく言われますが、それは制度というより個人の問題でしょう。まともな人間だってたくさんいます(私もその一人と思っています)。

受験期間が長くなるという点では、現在の新制度だって、法科大学院で最低2年は費やさないといけないわけだから、そう変わるものでもない。新試験の合格率も当初予定していたより低いので、その期間中、受験生はみな、相当程度の詰込み型の勉強をするでしょう。

そういうことで、司法試験における「詰め込みの弊害からの解放」というのは、今や否定されつつある小学校の「ゆとり教育」と同じで、実態はどうであるかという検証が何らなされないままに、一部のエライ人が頭の中で勝手に想像していただけのものであると信じています。

この問題、休み休みながら、引き続き何度か書く予定です。
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