忍者ブログ
大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
[4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

元特捜検事で、元弁護士の田中森一に実刑判決。

依頼者から預かった現金9000万円をだまし取った詐欺罪が認められたそうです(大阪地裁、16日)。
この人、「闇社会の守護神」などと呼ばれて、そんな著作も出しておられます。暴力団関係とか、そういう世界の人の弁護をよく引き受けていたとか。

さて、検事をやめて弁護士になる人のことを「ヤメ検」弁護士と俗称されていまして、そのヤメ検について触れようと思います。

前提として、多くの方がご存じのとおり、司法試験に受かって司法研修所を卒業すれば、裁判官、検察官、弁護士のどれかになれます。
とはいえ、裁判官と検察官は、国家公務員、しかも国家権力そのものをあずかると言ってよい人たちなので、相当優秀な人でないと国が採ってくれません。

私の研修所時代の記憶では、裁判官志望の人たちは、卒業試験とはまた別に採用試験みたいなものを受けさせられていましたし、
検察官志望の人たちは、教官(クラスに5人いて、民事裁判、刑事裁判、検察、民事弁護、刑事弁護を各担当)の中でも検察教官に気に入られないといけないので、宴会の席では検察教官にビールを注ぎにいくなど、いろいろ気づかっているようでした。

弁護士になるのは、それに比べれば簡単です。といっても、司法研修所を卒業するだけではダメで、日本弁護士連合会(日弁連)と、各都道府県の弁護士会に「登録」してもらう必要があります。

ちなみに登録手続きがどういうものだったかというと、研修所を卒業した翌日、弁護士志望の修習生みんなで(7~800人くらい。平成12年のことで、今はもっと多いでしょう)、霞ヶ関の日弁連のビルまで書類を提出しに行きました。

どんな審査があるのだろうと思っていると、みんなで大講堂に入れられ、壇上で日弁連の偉いさんらしき人が講演を始めました。
その偉いさんが、しきりに「先生方は…」とおっしゃるので、来賓にどこかの偉い教授でも来ているのかと思って聞き流していたのですが、講演の最後のほうで、それが私たちのことを指していると気づきました。
「あっ、書類を出すだけで、もう弁護士のセンセイということになったのか」
と、あっけなく思ったことを覚えています。

司法試験に受かって司法研修所を出たという資格は一生有効だし、なかでも弁護士は登録が簡単なので、裁判官や検察官をやめたあと、弁護士登録してやっていく人もそこそこにいます。

ということで、前提の無駄話が長くなってしまいましたが、ヤメ検は本当に刑事事件に強いのかとか、そういった話は次回以降に書きたいと思います。
PR
マイケル・ジャクソンが遺言書を残していたとか。
新聞等でその内容や写真が報道されていますが、日本の遺言制度とは違うところもあるようなので、その点に触れてみたいと思います。

まず大きな違いですが、マイケル・ジャクソンの遺言は、写真で見ると、ワープロで打たれたものに、自筆でサインした体裁を取っています。
日本では、自分で遺言を書くときに、この体裁を取ると無効になります。自分で行う遺言(自筆証書遺言)の場合は、その全文と、日付と署名を手書きする必要がある。
なお公証役場に行って公証人に頼めば、きれいにワープロで打った遺言(公正証書遺言)を作ってくれます。

ではマイケル・ジャクソンはどんな遺言を書いたか。また日本で同じような遺言を書いたとしたら、それは有効になるのか。

「遺産は482億円である」
これは日本でもアメリカでも、意味はないでしょう。本人がどう言おうが、死亡時に存在する財産から負債を引いたものが遺産になる。

「遺産は『マイケル・ジャクソン・ファミリー・トラスト』に移す」
これは有効で、日本でも同種のことが可能です。遺産を、特定の個人や法人に委ねることは認められている(信託法2条、3条)。

「遺言執行者はジョン・ブランカ(弁護士)と、ジョン・マクレーン(知人である)」
有効です。遺言執行者(遺言にのっとって遺産わけの仕事をする人)も、本人が遺言で指定できる。

「私の子供は3人で、他に子供はいない。前妻との婚姻は解消されている」
これは無効です。その人の子供が誰か、妻がいるかどうかは、戸籍の記載やその他の客観的事実から決まるのであって、遺言に書くことで決まるわけではない。

「子供の後見人は母キャサリンで、母が亡くなったら友人のダイアナ・ロスに任せる」
未成年の子供の後見人を指定することは可能で、日本でも有効です。ただ、第1候補、第2候補まで決めることができるかどうかは微妙です(調べていませんが、第1候補が亡くなったら、家庭裁判所が選任するのではないかと思います)。

「前妻には相続させない」
これは無効です。前妻、つまり離婚した配偶者には、日本法では相続権がもともとありません。また、上記のとおり、その配偶者が戸籍から除かれていなければ、いくら亡くなった本人が「妻はいない」とか「相続させない」と書いたとしても、妻の身分が認められ、相続権が発生します。アメリカではどうなっているのか知りませんが。

ということで、マイケル・ジャクソンにならって自分も遺言を書いてみようかな、という人は(ブログ読者にはいないと思いますが)、気を付けてください。
前回の続きで、刑事訴訟制度は誰が作ったのか、という話をしようとしています。

現在の刑事訴訟法を作ったその人は東大出身の学者で、戦後すぐ、その人が30歳ころで東大の助教授をしていたとき、GHQから呼ばれて、刑事訴訟法を新しく作り直すように命ぜられました。

その人は、昭和50年ころ、60歳になって最高裁判所に呼ばれて、判事の一人となりました。そして判事として活動していたとき、ある刑事事件を裁くことになった。
1審・2審で死刑判決が出ている殺人事件ですが、判決文を仔細に検討してみると、その被告人が犯人か否か、冤罪ではないかという、一抹の不安が残った。

しかし、刑事訴訟法には、最高裁は「重大な事実誤認」がないと原判決を破棄できないと定められている。一抹の不安では足りず、原判決を見て明らかに重大な間違いがあるといえない限り、原判決をそのまま認めないといけない。

だから最高裁としては、弁護側の上告を棄却し、死刑判決を維持せざるをえなかった。
そして判決の日、法廷で判決言渡しを終えて退廷しようとしたとき、傍聴席の、おそらく被告人の親族であろう人から、「人殺しーっ!」と罵声がとんだそうです。

プロの裁判官なら、傍聴席のヤジなど意にも介さないでしょう。しかしその人は、死刑にしていいか一抹の不安を抱きながら、しかも自分自身で作った刑事訴訟法の条文に縛られて、死刑を宣告せざるをえなかった。
その人は、この事件がきっかけで、死刑廃止論者になりました。

ここまでの話で、法律を学んでいる人ならきっとわかったと思いますが、「その人」とは東大名誉教授、元最高裁判事の団藤重光です。


足利事件で最高裁が平成12年に弁護側の上告を棄却したのも、同じ理由だったでしょう。5人の判事の中には「DNA鑑定なんて頭から信じていいのかね」と思う人もいたはずです。でもそれは「一抹の不安」に過ぎないのであって、当時の技術と知見を前提にすれば、明らかに重大な誤りとまでは言えない。

では、団藤氏が作った刑事訴訟法が誤りであったのか。たとえば、「重大な事実誤認」がなくても、「原判決に少しでも疑問を感じた場合は、最高裁は再鑑定その他の審理のやり直しを命ずることができる」という条文にすればよかったのか。

しかし団藤氏がそんな法律案を出したら、GHQは承知しなかったでしょう。「こんなゆるゆるの刑事訴訟法で、日々生じる犯罪をさばいていけると思っているのか」と、作り直しを命じたことでしょう。

もし仮にGHQが承知してそんな法律ができていたとしたらどうなったか。
きっと、オウム真理教の麻原、光市母子殺害事件、和歌山毒カレー事件などなど、多くの刑事事件において、審理のやり直しが度々行なわれ、裁判はもっともっと長期化したはずです。きっと世論が「そんな法律変えてしまえ」と言っていたでしょう。


足利事件の判決は、いま考えると間違っていたのだけど、当時の犯人逮捕にかける世論の期待と、世間一般に通用していた科学万能の考え方と、そして様々な歴史的経緯があって成り立ってきた刑事訴訟制度の中で、ある程度は不可避的に生じた側面もあると思っています。

当時の捜査がどこでどう間違ったのか、検証してみることももちろん重要ですが、個人責任を追及して謝罪させるのは、問題を矮小化するように思われます。
根本的には、刑事訴訟制度をどうすればいいか、どこまで慎重な審理を求めていけばよいか(慎重な審理はいくらでもできるが、それだけ裁判が長期化することを許容できるか)という、制度の選択の問題です。

裁判員制度が施行されて刑事裁判がイヤでも身近になった現在、この選択は一人ひとりの国民に問われているのだと思います。
足利事件について、もう少し雑感を書きます。

DNA鑑定の結果がひっくり返って無罪とされた(まだ再審でそう決まってはいないですが、おそらく確実でしょう)。これからも、科学的捜査などというものについて、慎重な目、疑いの目を向けるべきであるという考え方には変わりはありません。

ただ、この一件で、最高検察庁や栃木県警が菅家氏に謝罪したという報道に接し、
果たしてこの問題は、当時この事件を扱った警察官、検察官、裁判官らがずさんな処理をしたためなのか、彼らの個人的責任に帰することができるのかといった、ふとした疑問を持ちました。

最近私は、この足利事件の判決を、1審から最高裁判決に至るまで、全文読んでみました(弁護士ならたいてい、過去の主要な判決文が閲覧できるソフトを導入しているので)。

宇都宮地裁の1審判決(平成5年)は、これが実に説得的な有罪判決であり、DNA鑑定結果以外にも様々な状況証拠を指摘しつつ、被告人を有罪としている。

いま現在の知識・技術を前提にすれば、DNA鑑定結果を信頼してしまった点は誤りなのですが、当時の判例雑誌などを見ても、この判決をあからさまに批判する評釈は(少なくとも私が見た限りでは)ない。もちろん当時のマスコミもそんな指摘はしておらず、新聞には「幼女殺害犯に無期懲役」などという大きな見出しが躍ったはずです。

2審の東京高裁判決(平成8年)も、最高裁判決(平成12年)も、1審判決に誤りはないとしています。最高裁判所は、当時の第2小法廷の5人の裁判官が、全員一致で弁護人の上告を棄却し、無期懲役を確定させている。

最高裁すらその誤りを見抜けなかったのですが、最高裁は本来、憲法解釈や判例違反などを審理する場であって、足利事件のように、ホントにやったか否かが争点になる場合は、「重大な事実誤認」がない限りは、原判決を破棄できないことになっている(刑事訴訟法411条。以前にも触れました。こちら)。

あくまで当時の科学技術とそれに対する世間一般の信頼といったものを前提に、1審・2審の判決を読めば、そこに「重大な事実誤認」があると言えるかは疑問です。そんな指摘ができた人は、最高裁の5人の判事以外でも、当時ほとんどいなかったはずです。

(もちろん、当時の判断が誤っていることが、時の経過や技術の進歩により明らかになることがある。その場合にそれを正すのが「再審」制度であり、足利事件においてもこれからそれが行なわれようとしている)

ですからこれは個人の謝罪の問題ではなく、そういう刑事裁判「制度」の問題なのだと、私は考えています。
では、そもそもそんな「制度」を作ったのは一体誰なのだ、と、次回はそんな話を書いてみようと思います。続く。

先日、執行猶予と実刑の分かれ目について書きましたが、そもそもこの執行猶予とは何かについて、少し触れます。

「執行猶予」とはどういう状態か、たとえば、小室哲哉の詐欺事件で出た判決、「懲役3年、執行猶予5年」とは、どういうことになるのか。

これを、「5年間は待ってくれた上で、その後、刑務所に3年いかないといけない」と思っている人がたまにいますが、もちろん違います。それなら、あんまり嬉しくない。

多くの方はご存じのとおり、これは、「5年間待ってくれて、その間、問題を起こさずに過ごせば、刑務所3年はナシにしてくれる」という状態です。
これに対し、執行猶予がつかずに実際に刑務所に行かされることを「実刑」といいます。

執行猶予がついたあとはどうなるか。
まったく普通に生活してよいのですが、ただ執行猶予中の人が、また犯罪を起こして懲役刑に処せられると、執行猶予は取り消される(刑法26条)。

たとえば小室がここ5年のうちに、食うに困ってジャン・バルジャンみたいにパンを盗んで、窃盗罪で懲役1年の判決を受けたとする。
そうすると、執行猶予にしてもらっていた詐欺罪での懲役3年が実際に科せられることになり、新たに窃盗罪での1年が加わって、合計4年になる。

執行猶予中にやった犯罪には、まず執行猶予はつかないと思ってもらっていいので(詳細は省きますけど、刑法25条2項)、4年間、実際に刑務所に行かないといけなくなるわけです。

さらに、懲役刑に限らず、罰金刑に処せられたときでも、執行猶予が取り消される可能性がある(刑法26条の2)。
罰金刑はかなり多くの場合に定められており、たとえば道交法などは罰金刑の宝庫であって、車間距離を取らないとか、転回禁止違反とかでも、「5万円以下の罰金」を科することができることになっている。

とはいえ、懲役刑なら必ず執行猶予取消しなのに対して、罰金刑の場合は「取り消される可能性がある」ということなので、かなり悪質なケースに限定される運用になっているとは思うのですが(実際に調べたわけではありません)。

いずれにせよ、執行猶予期間中はいっそう身を慎むに越したことはないわけでして、
たまに刑事弁護を担当して執行猶予がついた人から、猶予期間は何に気をつけたらいいですかと聞かれることがありますが、そのときは「可能であれば車に乗らないでください」ということにしています。
久しぶりにリクエストネタです。

ある若い男性読者から、「居酒屋の『つき出し』は断ることができるか」と、時事問題とは全く関係のないリクエストがありました。
つき出しの比較文化的、社会学的考察については、私の個人ウェブサイトで検討したことがありますが(こちら。酔っ払いの雑談レベルですが)、今回は、法論理的に権利義務の問題として考察してみます。

まず、居酒屋に入ったときに、頼みもしていないのに出てくる、つき出しとかお通しとか呼ばれる小鉢、あれを断ることができるかというと、当然可能です。
権利(この場合は「つき出し1品を提供してもらう権利」)は自らの意思で放棄することが可能だからです。

もちろん、質問者の方が問題としているのは、そういうことでなく、つき出しを断った以上、つき出し相当分の代金を支払う義務を拒否できるか、という点だと思います。

居酒屋では、つき出しの料金として300円程度、会計に上乗せされていることが多いでしょう。
このとき例えば、
「契約とは、注文と受注という意思の合致で行われるものである。しかるに、つき出しは注文していないから、当該部分について契約は成立していない。だから飲食代金のうち、つき出し相当分の300円は支払うべき法的根拠がない」
と、店先で言ったとして、法的に通用するのか。

まず、つき出しを食べてしまったら、「意思の実現」が行われた、つまり、食べるという行為によって店側のつき出しの提供を了承したことになり、代金は発生するでしょう。

では、食べずにおいたままにしたとか、要らないと言って下げてもらった場合はどうか。
この点、解釈は分かれるかも知れませんが、私個人としては、常識外れの金額でもない限り、つき出しの代金を支払う義務は免れないと思います。

社会通念として、居酒屋やバーに行けば、つき出し料とかチャージ代金が発生するのは周知のことであって、そういう店に入って飲食を注文する行為の中には、相応のつき出し料金の負担を承諾する意思も含まれている、こう見てよいと思われるからです。

この辺り、誰かが蛮勇をふるって、「つき出し代金300円返せ」という裁判を起こして最高裁まで争ってみれば、司法の判断が明らかになるわけです。それは私としても大変興味ある裁判となると思うのですが、酒場でそんな無粋なことを言う人は、友達にはなりたくないと思います。
前々回に途中まで書いた、動産の差押えについて。

不動産や債権と違って、動産は差押えをしてもあまり金にならないものが多い。
現に、ロプロ大阪支店でも、現金数万円とパソコンが差し押さえられたに過ぎない。債権者(強制執行を申し立てた側)は、500万円くらいの過払い金の返還請求権を持っているようなので、1パーセント程度が回収できたに過ぎない。

それでも、執行官がやってきて差し押さえをするのはかなり衝撃を与えると、ここまでは前々回書きました。

動産を差し押さえられるとはどういうことなのか。
ある日突然、債務者つまりお金を払う側の自宅(債務者がロプロのように会社であればその本社や支店)に、裁判所から執行官がやってきて、「今から動産を差し押さえます」と言われる。

債務者が商店をやっていて、商品の在庫(家電製品や衣料品など)があれば取り上げた上で、いったん倉庫業者などに預けて保管する。

債務者が自宅や本社・支店で仕事に使っているパソコンなども差押えできる。しかしこれを持っていってしまうと仕事ができなくなるので、ひとまず差押えの「札」を貼っておく(実際には小さいシールを目立たないところに貼られるだけですが)。

なお、債務者の自宅にある鍋・釜や冷蔵庫など、生活必需品は差し押さえないことにしているようです。

で、取り上げられたり「札」を貼られたモノはどうなるかというと、後日、競売にかけられる。と言っても、中古の在庫商品や、誰かが使ったパソコンなど、大した値段がつくはずがない。まさに二束三文です。

でも債務者としては、商品在庫や仕事用のパソコンが取り上げられると大変なので、競売が行われる日までに何とかしようとすることが多い。つまり、何とかお金をかき集めてきて債権者に返済しようとして債権回収が行われることも多い。
ロプロも、パソコンが競売にかけられる前に、きっとお金を集めてきて返済に充てるでしょう。

モノに限らず、お金がある場合はそれも押さえて持っていくことができる。ロプロの事件でも、現金数万円が押さえられたようです。
一般的には、債務者が生活に困らない程度の差押えしか許されないので、そこそこお金がある場合に、一部だけ取り上げるという運用がされているのではと想像するのですが、私が経験した動産差押えでは現金を取ったことはないので、実はよく知りません。

このように、動産差押えは回収率は悪いのですが債務者に与える心理的動揺が大きい点で、強力な手続きといえます。

借りたお金を返さないまま「俺には財産がないから取られるものはない」と開き直っているような人は、ある日突然、執行官が家にやってくるかも知れませんのでご注意ください。
相変わらずブログの更新頻度にムラがありまして、先週は1回しか書けませんでした。
子供が産まれてからは、たいして育児はしていませんが何だか時間の経つのが早いです。
で、前回の続き。

裁判官が現行犯逮捕された話に触れました。
逮捕には、理由(容疑があること)と必要性(逃亡のおそれがあること)が必要という話で、それは現行犯逮捕のときも同じであるという話ですが、このことは、たいていの刑事訴訟法の教科書にそう書いてある。

学者の見解はともかく、実際にはどうか。
いま私はこれを事務所でなく自宅で書いているため、手元にきちんとした判例集とかがないままに書いていますが、たしか、大手タクシー会社の運転手がちょっとした道交法違反で現行犯逮捕されたケースで、逮捕の必要性がなく逮捕は違法だ、とした判例があったと記憶しています。

犯罪から逃亡するということは、職場や家庭生活のすべてを失うことを意味する。
上記の判例は、大手会社の社員がちょっとした事件で逃亡はしないだろう、事情聴取の必要があれば現行犯逮捕でなく、後日任意で事情聴取すればよかろう、ということだと思われます。

この問題に私が興味あるのは、私自身ならどうなるだろうか、ということを考えるからです。
私が何かのはずみで、酔っ払って電車の中で女性の体を触ったとか、自分は触っていなくても冤罪でそう言われて警察に突き出されたようなとき、私に「逮捕の必要性」は認められるか。

私自身は、弁護士会に登録してこの商売をやっているので、その職場の所在は調べればすぐにわかる。
昔は、何か不祥事を起こして弁護士資格を剥奪されたら、西成のドヤ街の簡易宿舎に身を隠して生きようと、冗談半分で考えていたのですが、妻子ある身となった今はそれはできない。
だから、私に何かあっても「逮捕の必要性」がない、そう思って安心していた部分はありました。

それが、弁護士よりよほど身持ちの堅い裁判官が現行犯逮捕されたということで、「逮捕の必要性」とは何なのだろう、と考えてしまったのです。
かくて、実務的には「逮捕の必要性」はかなり緩やかに認められているわけです。私も改めて身を律しないとと思った次第です。
お知らせ
一時的に戻ってきました。 左上に「裏入口」という小窓が出てくるかも知れませんが、当ブログとは関係ありません。おそらくアダルトサイトへの入口なので、クリックしないでください。
現在の来訪者数
ブログ内検索
アクセス解析
忍者ブログ [PR]