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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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和歌山地検で検事が刺され、司法修習生が取り押さえたという事件がありました。奇しくも司法修習生のことをあれこれ書いていたところですが、こういう事件に接するとは、司法修習生も命がけです。
 
今回は別にその事件に触れようとしているわけではなく、もう一つだけ付け加えたいことがあって「補遺」として書きます。
 
私は司法修習生時代、多くの貴重な経験をさせてもらいましたが、さらにありがたいことに、その間、給料をもらっていました。司法修習生は公務員に準じた扱いを受け、給料をもらえるのです。その財源はもちろん国庫、つまり国民の税金です。額は手取りで月16万円程度であったかと記憶しています。
 
少し話がそれて、こないだの参院選の後、数日間のみ議員をやっただけで1か月分の給料が払われたことが批判されましたが、私たち司法修習生も、4月8日ころに修習が始まって、4月15日には給料日があり、まる1か月分の給料をもらいました。
 
「いいのかな?」と思いましたが、ついこの前までは「司法浪人」であって収入もなかったところに、修習のため書籍をたくさん買わなければならないので、非常にありがたかったです。だから私は、数日のお勤めで1か月の給料をもらった議員を批判する気にはなれません。
 
このように司法修習生は、かなり恵まれた状況で勉強に励むことができます。
だから私は、いまこうして弁護士をやれているのは、国(すなわち全国民)に育ててもらったおかげだと思っています。私だけでなく、司法修習を経て法曹になった人は皆、思っているはずです。
 
だから法曹は皆、世の中に対して、何らかの形で恩返ししようと考えています。
裁判官と検察官は国家公務員として国から給料をもらい続けるので当然ですが、国から給料を1円ももらわない私たち弁護士でも、司法修習時代の恩義を決して忘れません。
 
弁護士が、国選弁護や地方自治体での法律相談などを安い報酬で引き受けたり、本当にお金がない人なら赤字覚悟で依頼を受けたりするのも、そのためです。
 
しかし近年、経費削減の波はここにも押し寄せ、今後、司法修習生の給料は「貸与制」にされようとしています。つまり、もらった分は後で国に返さないといけなくなる。
 
かくてこれからは、法科大学院(ロースクール)を出るまでに学費を借金し、司法修習生時代の給料も借金となり、弁護士になるまでに多額の負債を抱える人が増えるでしょう。
 
世の中に恩返しするために働くのと、自分の借金を返すために働くのと。弁護士の意識の違いは、その仕事ぶりにどのような影響を及ぼすのか、私にはわかりません。ただ、心に余裕がない弁護士は、問題を抱える依頼者に余裕を持って接することもできないように思えます。
 
私自身の恵まれた司法修習時代を半ば懐かしみながら書いてきましたが、近年の「司法改革」が、余裕のない弁護士を生み出すことにつながるのを少し懸念して、補遺を終えます。
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シリーズ4話目(いちおうラスト)。このシリーズは、海上保安庁のヘリコプターが、司法修習生の乗った巡視艇の近くをデモ飛行した直後に墜落した、というニュースをきっかけに書き始めています。

私も同じ研修を受けたかというと、確かに検察修習の時期に、海上保安庁の巡視艇に乗って、しばし航行した経験があります。

ただ、私のときは、艦上にヘリコプターが止まっていて、私たちが見ている前でプロペラが旋回を始め、いつ飛び立つかと見ていると、飛ばないままプロペラが止まってしまい、「え、これで終わり?」と拍子抜けしました。

司法修習時代の経験はすべて大きな意味があると、いくつか例に挙げて書きましたが、正直なところ、海上保安庁の船とヘリコプターを見る意味は、当時はいま一つよくわかりませんでした。「船に乗って気持ち良かった」という程度でした。

しかし今回、ヘリコプターが墜落して何人か亡くなったというニュースに接して、私の考え方も変わりました。

すなわち、このように日々、体を張って海に出ている人がいるということです。海上保安庁の現場の人たちは、文字どおり命がけで、与えられた職務をこなしており、そういう人々のおかげで、海上の保安や、自国の安全が守られているという現実があるのです。

海上保安庁のエライ方々は、事故をすぐ公表しなかった理由として、司法修習生らが心理的負担に思うのを懸念した、と説明したそうですが、後から考えた言い訳であるに違いありません。

私もここで書いてきたように、実地研修においては、いろんな現実を見せられます。こんな現実を前に、自分は将来、法律を武器にして一体何ができるんだろうと、考えさせられ続けます。

今回の事件でも、巡視艇に乗っていた司法修習生たちには、きっと何か心に感じることがあったはずです。事故が起こったことで精神的に参ってダメになってしまうようなら、到底、法曹は務まりません。

彼ら司法修習生は、亡くなった海上保安庁の人たちのことを胸に刻んで、法曹となるでしょう。そして国家の安全や、人の命といった問題について、彼らは法律家として、よりいっそう真摯に取り組んでいくでしょう。

かつて海上保安庁の巡視艇に「物見遊山」の気持ちで乗っていた私は、今回の事件で少し反省しました。司法修習の各研修は、このようにすべて意味があります。司法修習生を引き合いに出して事故を隠そうとしたエライ方の意図は理解しかねますが、亡くなった現場の方々には改めて敬意と追悼の念を表したいと思います。

今回のヘリコプター事故に関して、以上のようなことを思っていました。
なおタイトルはもちろん、外国小説の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」のパクリですが、内容に関連は全くありません。

シリーズ3話目で、検察庁での修習の話を書こうとしています。
 
検察庁では、非常に多くの興味ある経験をさせてもらえました。
たとえば、パトカーに乗せてもらうとか、刑事さんのパトロールに同行するとかいう研修もありました。これは何の勉強かと言われると、おそらく、これまでは刑事訴訟法の教科書の中で文字として読んだだけであった「捜査」の現場を見せるためでしょう。
 
それから、監察医の死体解剖に立ち会うという研修もあり、これなどは、最後まで正視できない人は検察官や裁判官になれないと言われています。私は最後まで立ち会い、その点の資質は問題なかったようなのですが、公務員になるほどの協調性がなかったために検察官や裁判官へのお声がかからなかったのは、前々回に書いたとおりです。
 
私が検察修習のころで最も記憶に残っているのは、現職の刑事の話です。
大阪地検の会議室に、私たち司法修習生のグループ20名ほどが集められ、大阪府警で殺人事件の捜査を担当している刑事から、捜査現場の話を聞かせてもらえることになりました。
 
その刑事は私たちに、様々な「死体写真」を見せてくれました。もちろん、捜査資料から抜粋したものですから、いずれも「他殺体」です。どんな写真だったかは逐一書きませんが、特に悲惨だったのは、バラバラ殺人の被害者となって切り刻まれ、ポリ袋に入れて放置された女性の写真でした。
 
私はそれらの写真を、すべて手にとってしっかり見ました。でも苦手な人は、目をそむけるか、目をつむるかしていました。
 
死体解剖といい、こういった事件写真の閲覧といい、これらは決して、タチの悪い「度胸試し」の意味で行なわれているわけではありません。
 
この写真を持ってきた刑事は、私たち司法修習生にこんな話をしました。
「このように死体には必ず、犯人が使った凶器の痕が残っています。殺されて死体になった人たちは、自分の体にその痕跡を残すことで、どうか犯人を捕まえてくださいと、叫び続けているんです。私たちはその叫びに答えて、犯人を捕まえるために、日々死体と向き合っているんです」
 
この刑事の話を聞いて、理不尽な犯罪に怒りを覚えない司法修習生はいないでしょう。
このとき一緒に話を聞いた同期生たちは、ある者は検察官になって容疑者を訴追し、ある者は裁判官となって刑罰を言い渡し、ある者は私のように弁護士になって、容疑者の言い分を聞いたり、被害者に弁償を行ったりしていします。
 
弁護士といえば、とにかく容疑者のやったことを言いくるめてその罪を軽くする役割をすると思われている部分もありますが、出発点は同じなのです。
 
裁判官、検察官、弁護士のいずれであれ、起こった事件は自分の目でしっかりと見て、事件の解決や被害の回復のために何をすればよいかを考えます。そして、日本国憲法や刑事訴訟法がそれぞれに課している役割に応じて、アプローチの仕方が違うというだけであり、犯罪自体に対する素朴な怒りというのは、どの立場でも変わりはありません。
 
司法修習時代に見せられる様々な現実は、このように、以後いずれの仕事に就くにせよ、職務を果たすに際しての根本をなす原体験となることが多いのです。
 
そして次回はようやく、巡視艇とヘリコプターの話の予定です。
 
前回に引き続き、司法修習時代のことを書こうとしています。
 
ソフトボール大会に始まって、3か月間の研修所での授業を受けた司法修習生たちは、全国に散らばって、法律事務所、裁判所、検察庁に置いてもらって、実地研修を受けます。
 
私が置いてもらった大阪市内の法律事務所は、所長が年配であったためか依頼者も相応に高齢の方が多く、そういった方々から私は「書生さん」と呼ばれていて、悪くない響きだなと思っておりました。
 
大阪地方裁判所の民事部にいたころは、法廷で裁判官の横に座ったり、裁判官室で裁判記録を読んだりする日々が続くのですが、時には「現場」に行くこともあります。
最も印象深かったのは、執行官と一緒に強制執行に立ち会ったことです。
 
朝、その日の予定を執行官に尋ねると、携帯電話の通話料を滞納し、裁判で支払いを命じられたのに応じない人がたくさんいるので、その人たちの自宅を回って、所有物を差し押さえるというのです。「動産差し押さえ」という手続きです。
 
執行官が地図を片手に、大阪某所、曲がりくねった路地の奥にある細い階段を上がった先の、債務者の自宅を探り当てて入っていきました。私も一緒に入ります。
 
屋根裏部屋のような、天井の低い、狭い家に、比較的若いその債務者はいました。当然、金目のものがあるわけではないので、執行官はやむなく、古びたステレオなどに「差押」のシールを貼っていました。
 
部屋を見回すと、その片隅の、いっそう天井も低く暗くなった一画で、債務者の父なのか祖父なのか、年老いた男性が薄汚れたせんべいのような布団で寝ているのに気づきました。
 
この家の急な階段を降りながら、この人たちはここでどんな生活をしているのだろう、と思いました。まだ「格差社会」という言葉が一般的でなかったころで、私は「貧富の差」という言葉を思い浮かべていました。
 
私の生家は、決して裕福ではなかったですが貧しくはなく、だからこそ、大学を卒業していったん社会に出た私が、やはり弁護士になりたいと言って勉強をやり直すという我がままも許されました。
 
この執行官とは、債務者の自宅を何軒か回ったのですが、だいたいどこも同じような状況で、貧富の差というものを、観念としてではなく目の前の現実として見たことに、私は少し衝撃を受けました。
 
法律家の仕事は、現実の問題に法律をあてはめて、それを解決するというところにあります。その前提として、社会の諸相を、様々なナマの現実を、自分の目で見させるというのが、司法修習の重要な目的の一つなのだと思います。
 
さて、瀬戸内海でのヘリ墜落事故は、司法修習生が検察庁での研修中に起こっているのですが、次回はこの検察修習のころの話を書くつもりです。
南堀江の幼児放置事件ももう少し書きたいと思いつつ、弁護士との相談で最大の成果を得る方法もシリーズとしてまだ続けたいと思いつつ、私ごとながら自宅の引越しなどがあって慌ただしく、思うように時間が取れません。

ここ1週間で興味を持った事件は、瀬戸内海で海上保安庁のヘリコプターが墜落して乗組員が死亡した事件です。海上保安庁が事故を隠蔽しようとしたことが報道されており、亡くなられた方のことを思えば、これはこれで大問題だと思います。

もっとも、私にとって興味深いのは、事故を公表しなかった理由の一つとして、このヘリコプターは司法修習生たちが乗った海上保安庁の巡視艇の近くをデモ飛行した直後に墜落しており、見学をした司法修習生に動揺を与えないよう配慮した、という説明がされていることです。

司法修習生とは、ご存じのとおり、司法試験に合格した後の研修を受けている、法曹(弁護士、裁判官、検察官)のタマゴと言われる人たちです。もちろん私もかつてはそういう身分でした。約10年前のことです。

法律家になる研修を受けている司法修習生たちが、なぜ巡視艇に乗ったりヘリコプターのデモ飛行を見たりするのか、そのあたりについて、いくつかお話ししたいと思います。

司法修習生は、裁判所や検察庁などで実地研修をするのですが、その前に、埼玉にある司法研修所という寮つきの学校に3か月ほど入れられて、教官の講義を受けます。

その司法研修所での最初の行事は何かというと、「ソフトボール大会」です。

勉強するための施設に入って、なぜいきなりソフトボールかと言いますと、「これまで司法試験の勉強ばかりしていたので、まずは頭をほぐしてやるため」と善意の解釈をする人もいますが、実際のところは、「ソフトボールをさせて、チームプレイの中での行動を通じて、その人の資質を見るため」でしょう。

人格円満で、見識・能力が優れた人は、裁判官や検察官に登用して、国の司法界や検察行政の将来を担わせる、司法研修所はそういう人材発掘の場でもあります。ソフトボールをさせるのはおそらくその参考にするためです。

ちなみに、私はソフトボール大会でどうであったかと言いますと、もともと球技全般が苦手で嫌いだし、試合に出てもチームに迷惑をかけるだけだと思ったので、試合に参加せず、「応援団」を名乗ってグラウンドの外で、「フレー、フレー」と言っているだけでした(いちおう応援団は総勢3名いたので、私だけがそう考えたわけではない)。

おそらくその時点で、「こいつは協調性や積極性がない」と教官に思われたのか、1年半の司法修習を通じて、教官から「裁判官(または検察官)にならないか」と声をかけられたことは、一度もありませんでした。

と、雑談になってしまいましたが、司法修習生たちの行事とその意味について、何度かに分けてシリーズで書くつもりです。

(なお上記は、私の時代をもとに書いていますが、現在は経費削減などのため、いきなり実地研修に入れられ、ソフトボール大会は行われていないようです)
南堀江での子供の放置事件の直後から、大阪府は啓発のためのテレビCMを流しています。いわく、子供の虐待のおそれがあれば、間違っていてもいいから電話してください、とのことです。

ただ、以前に書いたように、うちでも子供(1歳7か月)はまだまだ泣きますし、それで誰かが行政に通報し、たびたび役所の人が来るということになると、「面倒だな」と思うのが正直な気持ちです。

犯罪を防ぐために行政が監視を強化し、社会全体がそれに協力することは、適切に行われる限りは望ましいことなのですが、その適切というのが極めて難しいのだと思います。

たとえば、数年前から、銀行のATMでお金を振り込もうと思っても、現金だと10万円以上の振込みはできないことになった。銀行の送金機能は、近年著しく低下しています。これは何のためかというと、国際的なテロ組織や暴力団などが資金洗浄(マネーロンダリング)を行うことを防止するために、法律等によりそうなっているのです。

テロ組織に多額の不正なお金が渡り、それがひとたびテロの資金になれば、何百人や何千人が死ぬかも知れない。しかし、日ごろ銀行を利用する人の中で、「テロを防ぐためだから、送金が面倒になっても当然だ」と心底おもっている人は、ほとんどいないのではないのでしょうか。私を含めて大半の人が、「面倒だ」「なぜそんな規制をするんだ」と感じていると思います。

役人は、根は真面目な人が多いので、「それが国際的な趨勢だ」「国民の世論だ」と言われると、どんどん規制を強化してきます。そしてそれは、少しずつですが間違いなく、私たちの生活を窮屈にし不便にしていきます。

今回のような虐待死事件でも、通報を奨励し、児童相談所等が積極的に動くことによって、本当に事件発生を防ぐことができるのであれば、充分に合理性はあると思います。

しかし、虐待の多くは自宅という密室での犯罪ですし、今回の事件も、行政の呼びかけを無視し、子供が逃げないように部屋にテープまで貼っていたという異常なケースです。これらをどこまで効果的に防げるかは、まだ未知数であると思えます。

私は基本的には、社会全体が虐待防止のためにもっと協力すべきであると思っているし、行政にも(少なくともいま現在よりは)積極的に動いてほしいと思っています。そのために、少々の面倒ごとは親がガマンすべきです。

それでも、行政の権限を強化せよ、国民はそれに協力せよ、ということだけを強調するのは問題であって、効果のほどもわからないのに、監視や規制のみがどんどん強化されていって良いのかどうかという懸念を、一方では忘れてはならないと考えています。
先日のニュースで、40代の男性が女装して人前で性器を露出して逮捕されたという事件がありました。容疑者いわく、女性の格好をして恥ずかしいことをすると興奮する、とのことだそうです。
 
この人に限らず、仕事や人間関係のストレスで…などと言っては露出するオッサンが、定期的にと言っていいほど現れますが、全く理解できない犯行です。
 
私は、このニュースを聞いたとき、23歳の女性(下村容疑者)が、自らのブログやSNSサイトに「happyにならなきゃ!」などと書きつつ、その裏で2人の子供をマンションで置き去りにしていた事件を思い出してしまったのです。
 
冒頭の男性は、興奮を得たいがために性器を露出した。下村容疑者は、「happyになりたい」がために子供を見殺しにした。どちらも、「そんな動機でそこまでしないだろう」と言う点では同じであり、通常人には理解できない異常な犯行といえます。そして、実際に子供が2人死んでいる点で、下村容疑者のほうが明らかに犯罪としては重い。
 
それでも下村容疑者に対しては、一定の同情が寄せられているようで、児童相談所がもっと親身になってやれなかったのかとか、彼女も子供のころ親からネグレクト(無視)されていた被害者だとかいった声も聞かれます。
 
しかしそれなら、冒頭の男性だって、ストレスの多い社会ゆえにそんな行動に走ったのだ、だから彼も被害者だ、という声がもっと挙がっても良いはずなのに、そんな話は一向に聞かない。
 
もちろん私は、冒頭の男性が同情されるべきだとは全く思いません。ただ、下村容疑者の事件について、「社会のせい」だとか「彼女もかわいそう」とだけ捉えるのは、オッサンが性器を露出するのも社会のせいだ、と言うのと同様の誤りであると思うのです。
 
たとえば下村容疑者に対して、大阪市西区の区役所や警察が積極的に動いていたらとか、シングルマザーに対する社会的・経済的援助をもっと強めていたらとかいうことは、検討の余地はあるかも知れません。
 
しかし、下村容疑者は、当否はともかくとして風俗店で働いており、収入は悪くなかったはずで、経済的に困窮した挙句に子供を殺したというケースではないのです。
仮に大阪市西区の人が今回の事件を防いでいたとしても、この人はいずれ、自らが「happy」になるためには子供がうとましいと感じて、どこかで同じようなことをしていたような気がします。

次回以降に続く。
少し更新が空いてしまいました。前回の話の続きを書き足します。
南堀江のマンションで子供2人が放置され死亡するというニュースは、やはりショッキングだったのか、連日、テレビや新聞で続報を聞いているように思います。
 
この事件に対する感想は人それぞれだと思います。
ちなみに私の妻の感想は、「子供はかわいそうだけど、母親(下村容疑者)はどうでもいい」とのことでした。妻も育児で大変だとは思うのですが、子供を放置して死なせた母親に同情できるわけもなく、かといって下村容疑者のやったことが異常過ぎて、ピンとこないのかも知れません。
 
もちろん、下村容疑者のやったことは犯罪であり、警察・検察としてはどうでもいいわけではなく、この人はこれから裁かれます。そして大阪府警はこの度、下村容疑者に殺人罪を適用して再逮捕しました(これまでは死体遺棄罪のみで逮捕されていた)。
 
新聞などでは、「不作為の殺人」などという見出しが掲げられました。
直接危害を加えて殺すだけではなく、「放っておくと死ぬ」という状況で放置し死なせることも殺人となります。
 
もっとも、不作為の殺人というのは、なかなか裁判で立証する際のハードルは高いです。
「放っておくと死ぬ」とわかっていた、というだけで殺人罪になるのなら、同じマンションに住んでいて、子供の泣き声を聞いて「このままだと死ぬかも」と思いつつ市に通報しただけで放っておいた、という人まで殺人罪になりかねないからです。
 
ただ、この事案は長期間に渡り食べ物も与えず、外出する際にはドアにテープまで張って出られないようにしたということですから、殺人と認定しても良いように思えます。
 
通常の殺人であれ不作為の殺人であれ、いずれも刑法の殺人罪が適用されますので、最高で死刑もありえます。2人を殺したケースとなれば、死刑もありうるでしょう。この事件は裁判員裁判となるはずですが、裁判員がどのような判断をするのかも注目されます。
 
さて、この事件のあと、このブログのアクセス件数が少し増えました。「南堀江」関係の用語で検索すると、ここにヒットしてしまうためでしょう。
 
今後、事件の経緯についてこと細かに書くつもりはありませんが、この事件に関して思ったこと(たとえば、行政の権限をどこまで強化すべきかとか、西淀川区で女児をベランダに放置し死なせた事件では殺人でなく保護責任者遺棄致死罪が成立しましたが、この違いはどこから来るのかなど)を、ヒマを見て書いていきたいと思います。
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