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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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年末の慌しさに、つい当ブログも1週間ほど空いてしまいました。
当事務所は、本日26日が年内の仕事納めです。

さて今回はその慌しさを言い訳に、雑談でお茶を濁そうとしているのですが、
昨日、クリスマスの夕暮れ時、大阪地裁への行き帰りの途上で、中之島の大阪市役所の前を通りました。

数年ほど前から、市役所周辺はこの時期、電飾で彩られるようになりました。
最初のころは、仕事帰りにブラリと立ち寄る風情で良かったのですが、昨日などは人が一杯で、警備員が「立ち止まらないでください」などとメガホンで叫んでおり、ちょっと興ざめでした。

電飾といえば、神戸の「ルミナリエ」が最も有名です。これが発端となって、全国に電飾イベントが拡がったと思うのですが、東京には「ミレナリオ」というイベントがあるらしい。これなどは名前からして、「ルミナリエのパクリやん」と思うのですが、
「え? パクリじゃないよ。東京独自のイベントだよ。名前が似てる? 偶然じゃん?」
と東京の人が言ってそうな気がします。

(ごく最近知ったのですが、「ルミナリエ」と「ミレナリオ」は、デザイナーが同じ人のようで、似ているのは言わば当然なのですけど)

ともかく、全国各地でやたらと電飾イベントが行なわれていて、ちょっと食傷気味なのですが、私がいま注目しているのは「ジャンナリエ」です。

大阪・新世界のジャンジャン横丁で、串カツ屋や立ち飲み屋や将棋道場が立ち並ぶ、その商店街のアーケードに電飾を始めたようです。
「ジャンナリエ」という、パクリ丸出しのネーミングが、潔くて良いと思います。

私はまだ実際には見にいっていないのですが、ジャンジャン横丁ではノレンの奥でオッサンが酔っ払いながら、
「パクリ? 不景気? そんなん関係あるかい」
と笑い飛ばして電飾を見上げているのでしょう。

その良い意味での臆面なさと元気さに、昨今の不景気を打開する秘訣が隠されている気がしなくもない、といえば言いすぎでしょうね。

年末もまだまだブログを更新するつもりですので、仕事納めのあとはご自宅のパソコンからアクセスしてみてください。
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破綻したNOVAの元受講生20数人が、猿橋元社長ら経営陣に対し受講料返還を求め訴えた民事訴訟で、昨日、大阪地裁で第1回口頭弁論が開かれたそうです。
日経(18日夕刊)の見出しは、「元生徒『なぜ倒産 知りたい』 元社長、棄却求める」と。

原告となった元受講生らは大阪地裁の法廷に出たが、被告の元社長は出てこずに、代理人の弁護士だけが出廷し、「原告らの請求を棄却することを求める」という趣旨の答弁をしたに留まった。

「原告の請求を棄却することを求める」という答弁は、つまり「私には責任はありません」ということです。刑事裁判に置き換えてみると、検察官の起訴に対して「私は無罪です」と答えるのに等しい。

原告側からすれば、会社を潰しておきながら何とふてぶてしい、と思ったでしょう。しかしこれは、民事事件で訴えられた被告側の定型文句です。
損害賠償してくれ、という原告の請求に対して、被告が「あなた方の主張は正しい、請求は認めます」と言ってしまうと、その瞬間に被告の負けが決まってしまう。

刑事裁判であれば、被告人の自白だけで裁くことはできないことになっているので、被告人が「たしかに私がやりました」と言ってもその後の審理が行なわれるが、民事裁判では被告が認めたことは審理しなくていいことになっている。

だから、いかに原告の人たちに申し訳なく思っていても、被告の代理人弁護士としてはひとまず「原告の請求を棄却することを求める」と言わざるをえない。そうしないと弁護士の責任問題になる。

いったんはそう言っておいて裁判を開始し、果たして会社の破綻に元社長らの個人責任はあるのか、あるとしたらどれくらいの賠償責任を負うのかといったことについて、今後審理を尽くしてもらうことにする。
原告側としては肩すかしを食らった気がしたかも知れませんが、ことの良し悪しは別として、民事訴訟の第1回の法廷とはそういうものです。

刑事裁判に関して、たまに「被告人の心の闇は解明されずに最後まで空しさが残った」といった風の論評を見かけますが、刑事裁判は被告人が犯罪行為をしたかどうかを判定する場であって、人の心の中を解明する場ではない。だからそれを空しいと感じるのは的外れです。

NOVAの民事裁判でも、原告側は、NOVAがなぜ倒産したか、その原因や責任を元社長はどう考えているのか知りたい、と考えているようですが、元社長の心の中の解明は、あまり期待しないほうがよいのでしょう。
今回は単なる雑談です。

麻生総理の支持率の低下が著しいです。
この人、失言は多いし、漢字は読み間違えますが、何かこれといった失策をしでかしたわけではない。景気は悪化したし、党内も政局もゴタゴタしてますけど、それも麻生総理の責任ではないようにも思う。

判官びいきの私としては、引き続き麻生総理をそれなりに応援したいと思います。

麻生総理の漢字の読み間違えの多さも、これも愛嬌のうちだと考えています。
池田元総理はかつて、「エチケット」のことを「エケチット」と言ったという、今では考えられない間違いをしています。それでも池田総理は今でも名宰相と言われている。
漢字の読み間違えなど、カタカナの読み間違えに比べればかわいいものです。

しかも最近、麻生総理がニュース番組などで画面に出てくると、「また何か漢字の読み間違えをしたのかな」と思って、つい画面を見てしまっていることに気付きました。
画面に出てくるテロップと見比べながら、麻生総理の発言をきちんと聞くようになった。

ここで私は、英国元首相のチャーチルの逸話を思い出すのです。

チャーチルはよく、大きな葉巻をくわえながら公衆の前で演説していた。
公衆は、チャーチルの葉巻の灰がいつポロリとこぼれ落ちるかが気になって、知らないうちにチャーチルの顔や手元をずっと見ているうちに、その演説に引き込まれてしまう。
実は葉巻の灰がなかなか落ちないのには仕掛けがあって、葉巻の中に細い針金が仕込まれていたのです。

麻生総理も葉巻が好きだからこの話を知っていて、公衆の注意を引きつけるために計算ずくで漢字を読み間違えている……というわけでは、さすがにないでしょうね。

一国の総理が判官びいきにされること自体、すでにかなり危機的なことかも知れませんが、とりあえず麻生総理にはしっかりがんばってもらいたいものだと浅く考えています。
広島の女児殺害事件で、広島高裁が地裁の1審判決(無期懲役)を破棄差戻し(9日)。

ペルー国籍のヤギ被告人が、女児にわいせつな行為をした後に殺害してダンボールに入れて放置したという、注目されていた事件です。
高裁判決は何を意味するかわかりますでしょうか。

弁護側は、無期懲役は重すぎると言って控訴し、検察側は軽いと言って控訴した。
被告人に対する量刑はどうなるのかと思っていたら、高裁は、
「量刑以前の問題であって、被告人が何をやったかがきちんと明らかにされていない」
ということを理由に、地裁に裁判のやり直しを命じたのです。

1審の地裁判決は、被告人が女児に対して「自宅またはその周辺で」わいせつ行為をした、と判断したのに対し、2審の高裁は、「自宅か周辺か、どちらかはっきりさせなさい」と言った。

ここで前回書いた話に戻ります。
刑事事件の判断が、ミリ単位でなくセンチ単位の話でよいなら、つまり素人にもわかる大ざっぱなものでよいなら、
「自宅かその周辺かはどっちでもよい、要するにこの被告人は女の子にヤラシイことをした末に殺害したんでしょ」とだけ判断すればよいとも言える。

しかし、女の子を他人の目に触れない自宅に連れ込んでわいせつ行為をするのと、周辺つまり人通りのある公道でそれをするのとでは、やはりやっていることの意味合いはずいぶん違うし、それが罪の重さにも響いてくることも考えられる。

そこを大ざっぱにしてはいけないのだけど、この事件の審理は、今後の裁判員制度を見据えて、かなり早い審理(約50日だそうです。事案の重さからして、確かに早いです)で判決を下した。

おそらくヤギ被告人は、捜査段階では、検察側の筋書きに沿って、「自宅に連れ込んでヤラシイことをしました、すみません」と言っていたのが、裁判の段階になって、「やってない」とか「自宅か周辺のどこだったか忘れた」とか言い出したのでしょう。

従来なら、被告人のどの供述に信用性があるのかという点について、詳細な、それこそミリ単位の議論を検察側・弁護側で戦わせることになるのだけど、裁判所側は「そんな時間はない」ということで、そこを曖昧なままにしてしまったのです。

裁判員が参加する裁判が始まれば、殺人事件でも3日や5日で審理するとのことです。
ミリ単位でなくセンチ単位で、素人でもわかりやすく、といった審理方針は、時としてこのように重要部分を曖昧なまま残してしまうことが懸念されるのです。
前回の続き。

最高裁新長官の竹崎氏は、記者会見の場で、裁判員制度のもとでの裁判についてこう言ったとか。
「これからは、ミリ単位の物差しをセンチ単位のものに持ちかえないといけない」と。

つまり、これまでの刑事裁判は、法律のプロである弁護士、検察官、裁判官だけの世界のもので、こと細かな議論に拘泥してきた部分もある。

被告人や被害者の供述調書の些細な食い違いが問題となって、その証言がホントかウソか、刑事に無理やり言わされたのではないかということで延々審理が続いたり、
被告人の責任能力が問題になれば、複数の医師から専門用語が満載された分厚い鑑定意見書が提出されたりもする。

一般国民が参加する裁判員制度になれば、そういう細かい部分にとらわれた審理でなくて、もっと大局的な観点からわかりやすい裁判をしないとダメということでしょう。

たしかに、大半の刑事事件においては、ミリ単位の細かい議論は不要で、センチかメートルくらいの大ざっぱな審理でも、だいたい誤りのない判決が下されます。

刑事事件の記録(関係者の供述調書や現場写真など)は、電話帳かまたはそれ以上の分厚さがありますが、刑事事件をやる弁護士は、実はそれを一言一句もらさず読んでいるわけではない。
やったことに争いのない単純な事件なら、ポイントとなる部分だけ読めば、だいたいその事件の判決内容は想像できるのです。

そういうことで、一般人が裁判員として裁判に関わるときも、ある程度は大ざっぱな感覚でよいと、私も思います。

しかし、すべての事件でそれでいいわけではない。
中には、有罪か無罪か、非常に微妙なケースがあり、紙一重の差で結論が逆転することもありうる。
そういう場合は、センチ単位ではなくて、プロ同士のミリ単位の議論が必要になってくるのです。

と、ここまで昨日の段階で下書きしておいたら、ちょうど、ペルー人による広島の女児殺害事件で、高裁が地裁判決を「審理が尽くされていない」と破棄しました。

私が言わんとしていた問題がそのまま出てきた気がしますので、この事件は次回に取り上げたいと思います。
このところ、刑事裁判ネタが続いていますが、多くの方にとって「ありがた迷惑」(または単なる迷惑)ながらも今後は身近なものにならざるをえないものとして、裁判員制度の話を続けます。

最近、最高裁長官が任期満了で交代し、新長官として竹崎博充氏が就任しました。
全国の裁判所のトップである最高裁判所は15名の裁判官で構成され、うち一人が最高裁判所の長官となります。まさにトップの中のトップであり、「三権」つまり立法・行政・司法のうち司法権の最高峰の存在です。

この竹崎氏の前任は東京高等裁判所の所長です。
普通は、最高裁判所の判事の一人として迎えられて、そのあとしばらくして長官に上り詰めるのですが、この方は最高裁判事を経ずにいきなり長官になりました。

やや異例の人事となったのは、この方が長年、刑事裁判の経験をしてきており、裁判員制度の創設にも関わったということが大きな理由のようです。今後、裁判員制度がうまく機能するように舵取りが求められているのでしょう。

ちなみに、今回入れ替わりに退任した前長官の島田仁郎氏ですが(旧ブログでもネタにしましたが私の司法修習生時代の研修所長官だった人です。そういう話はこちら)、この人も、本来は長官候補ではなかったのが、刑事裁判に強いということで最高裁判事になってすぐに長官に抜擢されました。

裁判員制度がここ数年の最高裁人事をも左右しているわけで、最高裁がいかにこの制度の施行に必死になっているかが想像できます。

と、裁判員制度の話をしようと思ったら人事のウラ話になってしまいました。
竹崎新長官と、これから始まる裁判員制度のもとで、刑事裁判はどのようなものになっていくのか、新長官は注目すべき発言をしているのですが、その肝心な話は次回以降に譲ります。
前回の続き。
刑事裁判への被害者参加制度の趣旨は、被害者の被害感情の緩和に主眼があると思われるのですが、それでも疑問を感じる部分もある。

まず、刑事裁判の手続きにおいて、被害者の被害感情は、被告人を訴追する検察官がくみ取る建前をとっています。

原始的な社会では被害者自身(またはその遺族)が加害者に報復・復讐することになっていたが、近代国家においてはそれはやめようということで、加害者を追及するのは検察官、それを裁くのは裁判官というふうに、国家権力が国民の「復讐する権利」を取り上げた。

その代わり、被害者の被害感情は検察官が充分に満たすことにして、その気持ちを最大限に配慮した捜査、起訴、求刑を行なうことにした。それが刑事訴訟法の基本的な考え方であるはずです。

ですから、被害者参加というのは近代国家の刑事裁判のあり方からはかなり異質なもので、そんなものを取り入れなければいけないというのは、これまでの検察官がよほど「被害者の気持ちを配慮できてませんでした」と自認しているようなものです。

(少しそれますが裁判員制度も似たようなもので、「国民の常識を裁判に取り入れる」とか最高裁が言ってますが、それはつまり「裁判官には常識がありません」と認めているようなものです)

そういう話はさておくとしても、刑事裁判というのは、刑事訴訟法に定められた手続に則った審判を経て、被告人に有罪・無罪の判決を下す場であるはずです。

しかし、被害者が積極的に法廷に参加することによって、「冷静で厳密な審判の場」である法廷が、「感情を前面に出して被告人を罵る場」となることも考えられる。これは却って、刑事裁判の手続を矮小化させる気がするのです。

とはいえ、被害者参加制度が立法として成立し、見る限りでは一般に広く受け入れられているのは、実態としてそれほどまでに、被害者の感情がないがしろにされてきた事実があるのだと思います。

異質な手続ですからその運用には配慮と注意を要すべきですが、被害者保護に少しでもプラスに働くように期待しつつ、その運用のあり方に注目していきたいと思います。
裁判員制度以外にも、刑事裁判で注目すべき改正が行なわれています。
刑事裁判の法廷に、被害者が参加する手続が充実しつつあるという話。

これまでの刑事裁判においては、単なる傍聴人でしかなかった被害者ですが、2年ほど前でしたか、法廷に出て証言台で被害者の気持ちを述べることができる「意見陳述」の制度が採用された。

この12月からはさらに進んで、検察官のように被告人に質問できるとか、検察官の求刑とは別に被害者が求刑する(検察官が求めるより重い処罰を裁判所に求めることができる)という制度が施行されるようになった。

この被害者参加制度については、旧ブログでもいつか話したと思いますが、この機会に改めて書きます。
私自身は、これらの制度に反対するわけではありませんが、「果たして意味はあるのか?」と疑問に思うところがなくはない、ということです。

すなわち、「被害者が法廷に参加して重い処罰を求めると、被告人の刑罰が実際に重くなる」ということなら、被害者が参加する意味は大きいといえる。

しかしそうすると、表現は悪いですが「声の大きい被害者」なら被告人の刑罰を重くしてもらうことができるが、被害者が黙って耐えていると、刑罰は軽くなってしまう。
同じ犯罪被害にあっても、被害者の「声の大きさ」で刑罰の重さが大きく変わってしまうことになります。

私自身、弁護士として被害者側についた経験もありますが、「意見陳述」の制度が採用されて以降も、「法廷で私の気持ちを述べたい」と言う人にお会いしたことはない。
悔しい思いをしつつも、「法廷などおそれ多い」と黙っている人のほうが多い。
だから「被害者のあなたが法廷に出ないと、被告人の刑罰が軽くなりますよ」という制度になってしまうと、多くの被害者にとってかわいそうな結果になると思われます。

そうすると、「被害者が法廷に参加するか否かにかかわらず、刑罰の重さはさして変わらない」という制度設計にする必要があるが、それだと、何のための被害者参加制度かわからなくなるのです。

いや、刑罰が重くなるか否かは二の次の問題であって、被害者が参加すること自体に意味がある、それで被害感情が緩和されることに意味があるのだ、と考えることもできます。
むしろ被害者参加制度の主眼はそこにあるでしょう。

その点をどう考えるかについては、次回に続きます。
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