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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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前回の続き。
国歌斉唱時に起立しない人というのは、平和主義うんぬんではなく、単に権威・権力が嫌いなのであろうと、そういう話をしました。

もちろん、それも思想信条として自由なのは間違いありません。
「別に私は砲弾が飛んでくるような場所で世界平和を訴えたいと考えているわけではない。ただ自分の身が安全なところで、反権力の姿勢を示したいのだ」という人がいたとして、そう思うこと自体は構わない。

しかし、その程度の思想しか持たない人であれば、式典における秩序のほうを重視して、起立することを強制することは許容されると思います。

学校の式典以外では、それを正面から認める法令がすでに存在します。
私たちの商売になじみの深い、裁判の場面がそうです。たとえば民事訴訟法では、法廷で証人として証言する人は、最初に「ウソをつきません」という宣誓をさせられます。民事訴訟規則によると、宣誓は起立して厳粛に行なう、と定められています。
宣誓を拒否すると、10万円以下の罰金が科せられることがあります。

かように、世の中には「起立して然るべき状況」というものがあって、それを法令で強制することも、許容されているのです。

ちなみに、裁判所で法廷が開かれるときや、宣誓する証人が起立するのはなぜかと言いますと、それは決して、裁判官サマに対する礼儀などではない。これからこの法廷で人が人を裁くという、厳粛な事実を前に、起立するのです。

起立して頭を下げる理由は、裁判官サマがエライからではなく、そこで裁かれる人に対する礼儀であり、そこで行なわれる正義に対する敬意なのです。

同じように、学校の卒業式などで児童やその保護者が、国歌や校歌を斉唱する際に起立するのはなぜかといえば、それは国や学校のエライさんに対する礼儀などではない。
公教育の場で、児童生徒たちが教師たちから教育を受け成長することができたという、その事実に対して起立と礼をするわけです。

児童生徒の保護者の多くは、たぶんそう考えるのであり、だからこそ学校での式典に厳粛な気分で臨むわけです。そういう人たちが全員起立している前で、一部の教師が座ったままというのは、多くの人たちにとって不快感を与えるはずです。

そんなわけで私は、「権威的なものがイヤ」という程度の思想信条で起立を拒否する人に対しては、刑罰を背景に起立を強制しても構わない、だから合憲だと思うのです。
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