大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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鳩山政権下で話題になっている外国人参政権の問題について触れます。
最高裁の考えは、外国人に地方選挙レベルでの選挙権を認めることは合憲であるとの立場であると理解されていますが、その判決を書いた判事の一人が「実はそういうつもりじゃなかったんです」と言いだしました。
選挙権などの参政権は、国民が自国の政治に参加するための権利で、民主主義の観点から非常に重要な権利であるのは当然です。
民主党政権下において、外国籍の人に地方選挙での選挙権を与える方向での検討がされているようですが、その賛否はさておいて(私は反対)、最高裁がこれまでどう言っていたのかについて述べます。
最高裁の平成7年2月28日の判決に、「外国人でも、永住者等でその地域と密接な関係を持っている人の意向を反映するために、法律を作って、地方選挙の選挙権を与えることは、憲法上禁止されていない」(要約)と言った部分があります。
外国人の選挙権については、「ぜひ与えるべきだ」という見解(要請説)と「与えてはならない」という見解(禁止説)と、その中間に「与えるんなら与えてもいい」という見解(許容説)があり、最高裁は上記の判決でこの許容説を採用したと理解されています。
それ以来、この最高裁判決が、外国人選挙権肯定派の強力なより所となってきました。
否定派は、この最高裁判決をそのようには読みません。
上に挙げた部分は「傍論」に過ぎず、法的な意味を持たない、と言います。
「傍論」とは、判決文において、結論と関係のないところで述べられている部分のことを言います。
この判決が出されたもとの事件は、以下のようなものでした。
大阪市に在住するある韓国籍の人が、ある地方選挙の際、大阪市の選挙管理委員会に、選挙人名簿に登録してくれと申し出たところ、却下された。その却下処分を取り消せ、名簿に登録して選挙権を与えよ、と申し出たものです。
最高裁は、却下でいいんだ、と言って、この原告たちの上告を棄却しました。
上告棄却(原告敗訴)の結論に至る理由として、このとき最高裁は「選挙権は国民固有の権利であると憲法にも書いてあるが(15条1項)、この場合の国民とは、日本国籍を有する人のことを言う」(だから韓国籍の人には地方選挙権が与えられていなくても違憲ではない)と言いました。
「判例」というと一般的には、「過去にそういう判決が出た」ということを指しますが、私たち弁護士や裁判官はもっと限定的に捉えていて、法的な意味での拘束力がある判例は、「最高裁が、結論を出すに至る理由づけとして述べた部分」に限られるとしています。それ以外の部分が「傍論」です。
韓国籍の人が「選挙権を与えよ」と裁判を起こしたのに対し、最高裁は結論としてそれを認めなかったわけです。その結論を出すためには、「日本国籍を有する人に限られるからだ」という理由づけだけ述べれば良かった。
判決文には、さらにおまけとして、「今後法律を変えて、与えるんなら与えてもいい」という部分が付け加わっているわけで、これは本来いらない部分であって、傍論となる。だから法的意味はないんだ、最高裁は明確に許容したわけではないんだ、と解釈するのが、否定派の判決の読み方です。
この判決について、当時の最高裁判事が何を言い出したか。長くなったので次回に続きます。
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小沢さんの政治資金問題は不起訴で終わりかと思っていたら、市民団体が検察審査会に起訴させるべきだと申入れをしたらしい。
検察審査会は、少し前に触れたとおり、検察が事件を不起訴で終結させた際に、それでよいかを審査する機関で、以前はその決議には強制力がなかったのが、最近、一定の要件のもとで強制力に起訴されるという効果が与えられるようになった。
ですから、市民団体の申入れを受けた東京の検察審査会の判断によって、小沢さんが今後起訴される可能性も出てきたわけです。
小沢さんは、東京地検特捜部の捜査が身辺に及んだとき、「こんなことは民主主義社会においてあってはならない」と声を荒げました。
検察の動きを、国民から選ばれた審査員が審査するのが検察審査会であり、これは極めて民主的な制度です。小沢さんの好きな「民主主義」に基づいて、その小沢さんが今後起訴されることになるとすれば、皮肉なものです。
今回は、小沢さんの事件というよりは、この検察審査会のことが本題です。
検察審査会の決議に強制力が付与されたということは、検察の民主的統制、という観点からは画期的な法改正なのですが、いくばくかの懸念もあります。
今回の例で言えば、検察審査会に対し、起訴相当の決議をしないように政治的圧力がかかることはないか。小沢さん自身はさすがにそんなことはしないでしょうけど、その取り巻きの人や支持者らが働きかけをすることも考えられなくはない。
もし起訴相当の決議をしたら、審査員たちはその後、地元の民主党支持者にいじめられたりしないか。
検察審査会の判断に強制力がなかったころは、こんな問題はなかったのです。検察審査会の決議はあくまで「勧告」であって、起訴するかどうかは検察が決めていた。
だから審査員も、「いやあ、あの事件を起訴した(または起訴しなかった)のは、検察の判断であって、私たちがそうさせたわけじゃないんですよー」と、言い訳ができた。
自らの判断に強い効力が与えられるということは、その判断をする人に重い責任が課せられることを意味します。そして、今回の事件みたいに、政治的な意味あいを持つケースだと、審査員が政争に巻き込まれてしまうというおそれもある。
審査員になる人には気の重い話ですが、検察審査会には適切な判断を期待するとともに、「民主主義」大好きの民主党が間違ってもその決定に介入したりしないよう、注意していくべきでしょう。
前回のブログ更新後も、サントリーとキリンの経営統合の白紙化とか(サントリーには独自路線でいてほしいので個人的にはうれしい)、明石の歩道橋事故で検察官役の弁護士が3人指定されたとか(うち1人は過去に民事事件であたったことがある人でした)、うちの息子が3歩だけ歩いたとか、注目のニュースが日々見られます。
でもここでは似たような話が続いてしまいます。すみません。
内閣府の世論調査で、死刑制度について「場合によってはやむをえない」と容認する声が85%を超えたと、先日の報道にありました。
死刑の是非に関する議論は省きますが、私自身も、死刑は廃止すべきではないと思います。世論調査の結果も、多くの人にとって、驚くような数字ではないでしょう。
ただ、死刑制度を容認するにあたっては、明確に意識していただきたいことがあります。
「場合によっては死刑もやむをえない」というその「場合」が、自分自身に関係ないところで起こるとは限らないということです。
自分自身や、親族や友人が殺人などの凶悪犯罪に巻き込まれた場合を想定すると、これは当然、犯人が死刑になっても構わない、と思う人が多いでしょう。報復感情として当然のことです。
しかし一方、自分は罪を犯していないのだけど、冤罪によって自分が犯人に仕立て上げられ、自分に死刑判決が下された場合はどうか。
死刑判決が再審により引っくり返った例は現に存在します。前回も触れた菅谷さんは、不幸中の幸いで無期懲役判決だったため、生きて出てくることができた。
これらはたぶん氷山の一角で、中には、本当に冤罪のまま獄中で死んだ、または首をくくって死刑執行された人も、いるのではないかと想像できます。
そしてそれが、自分の身に降りかかってくる可能性は、死刑制度が存在する以上、ゼロではない。死刑を容認するというのであれば、そういう「場合」であっても「やむをえない」と言えなければならない。
私は上に述べたとおり、死刑容認派です。
自分が冤罪で死刑判決を受けて、徹底的に争ってもダメなら、殺されても仕方がない、というのが私の考えです。
日本の刑事裁判は、99.99%くらいは信用できると思っていますが、人が作る法律や制度は完全なものではありえない以上、事実として間違いは必ず起こる。その場合、制度を選択した国民の一人としては、従わざるをえない。
死刑を容認する人は、一度はそういった可能性を考えた上で、容認するかしないかを選択してみてください。
そしてもう一つ気をつけるべきなのは、内閣や法務省の言うことが、世論調査で85%以上の国民が死刑を支持した、だからたまに間違った死刑判決が出てもやむをえないんだ、といったニュアンスを帯びてきたら、そのような世論誘導は決して容認してはならないということです。
ブログ更新が3日あいた間に、道頓堀「大たこ」立退きの逆転判決、横浜事件の刑事補償決定、小沢さん不起訴、朝青龍の暴行事件と引退、うちの息子が「バイバイ」をするようになったなど、注目すべき事件が多々起きていますが、ひとまず前回の続きです。
刑事事件の時効を廃止せよという意見は、一見して誰にでもわかりやすい。
殺人事件の被害者の遺族の悲しみは癒えることなく、犯人逮捕に執念を燃やす刑事がいて、もう少しで逮捕に結びつきそうなのだけど、時効が来て捜査が打ち切られて、犯人がどこかで高笑いしている。ドラマに出てきそうだし、現実にもあると思われます。
そんな状況を見れば、誰だって、時効なんていらないというでしょう。
しかし、一見不合理に見える制度であれ、それによって守られてきた「目に見えない利益」があるはずであり、制度を廃止するからには、そのメリット・デメリットを慎重に比較する必要があります。
時効廃止の「メリット」を検討するためには、上に書いたドラマのような状況が、現実のケースとしてどれくらい存在したか、挙げてみるべきです。
そしてそれらのケースで、犯人逮捕ができないまま時効をむかえてしまった理由は何なのか、時効を廃止することによって、犯人が逮捕できた可能性はどの程度あったのか、それを検証する必要があります。捜査の怠慢が理由なら、時効を廃止しても意味がないからです。
そして、時効廃止の「デメリット」も考える必要がある。すぐに思い浮かぶのは、冤罪のおそれです。
すでに当ブログでも同じ話をしましたが、ある日突然、身に覚えもないのに、30年も40年も昔の殺人事件の容疑者として逮捕されるおそれがある。やってないならアリバイを出せと言われても、30年前の何月何日にどこで何をしていたかなど、証明できる人はいないでしょう。
でたらめなDNA鑑定で無期懲役判決を受けた菅家さんの例は記憶に新しいですが、将来、わけのわからない「ナントカ式鑑定」といったものが開発され、「ナントカ式鑑定では30年前の殺しはお前がやったと出た」と刑事から言われたら、たまったものではありません。
菅家さんの事件だって、明治や大正時代ならともかく、鑑定は平成2年に行われているのです。今後も似たようなことが「科学的捜査」の名を借りて行われないという保証はない。
さらに、前々回に触れたとおり、検察審査会制度の議決が強制力を持つようになったため、検察審査会の判断で何十年も前の事件が蒸し返されることだって考えられます。
これまでは時効制度によって、私たち一人ひとりが、目には見えないところで、こういうことにならないよう守られてきたのです。
法務省の調査では、時効廃止に賛成という人が90%程度にのぼったそうですが、本当にそれでいいのか、もっと慎重な意見にも耳を傾けるべきであると考えます。
唐突な話ですが、私たち弁護士は「時効」を非常に恐れます。
たとえば、知人に貸したお金の時効は10年、商売人同士の貸し借りなら5年、不法行為(交通事故など)は3年、財産分与は離婚から2年で時効消滅するというように、債権の内容に応じて時効期間が異なります。
依頼を受けておきながら、業務の忙しさにかまけて後回しにしているうちに時効にかけてしまうと、弁護士として明らかに責任問題となります。だから時効にかかりそうな事件は急いで処理します。
さて今回の本題は、刑事事件の時効の話です。
法務省が刑事訴訟法の改正案を作成し、殺人罪など一定の凶悪犯罪(条文上、死刑に値する罪)については、時効を廃止する方向の内容となっているらしい。
私の個人的な立場では、過去にも触れましたが、時効の廃止には反対です。
私たち弁護士が民事事件を請けおった場合、冒頭に述べたように時効があるから、それまでに処理しようという気になる。弁護士でも警察官でも、人間の心理として、もし時効がなければ、ややこしい案件はずっと後回しにして、「いつか片付けますから」というポーズだけ取っておくことも考えられる。
これまた私の狭い経験の中から、現在進行中の事件なので少し抽象的にお話ししますが、私の依頼者で、親族が失踪し、殺人事件に巻き込まれた可能性のある人がいます。その容疑者は指名手配されていますが、事件発生から約5年、未だに発見されず、迷宮入りとなっています。
その失踪者が残した財産をどうするかといった問題(相続や失踪宣告など)で依頼を受けたので、情報を得ようと何度か所轄の警察に電話しましたが、何ら進展はありません。そうしているうちに担当者が他の署へ行ってしまったりしました。
この警察官たちは、決して仕事をさぼっているわけではないでしょう。
ただ、毎日多数の事件が起こり、目の前の容疑者の逮捕や事情聴取に追われていると、5年前の事件は、どうしても後回しにならざるをえない。
それでも、時効というものがあれば、それまでには何とかしようと、警察官だってプレッシャーに思うはずです。その時効がなくなれば、その契機すら失われてしまいかねない。
現場の警察官が忙しいのは分かる、だから人員を増やして、迷宮入り事件専門の警察官を置くのだ、といった考えもあるようですが、事態は同じであるように思います。
たとえば、現行の時効期間(殺人なら従来は15年。最近の改正で25年になりました)を超えると、その専門の部署に事件が回される、ということになると、所轄の人は、「難事件でも15年たてば自分たちの手を離れる」と考えるだけであって、犯人逮捕のモチベーションが上がるわけではない。
専門の部署の警察官だって、15年前の事件をどう捜査するのか疑問です。私の経験した上記の事件はせいぜい5年前なのに、現在、捜査は何も行われていないに等しい。
警察のことを悪く言う趣旨ではありませんが、形だけの専門部署ができたことを言い訳に、現場が手抜きすることも考えられる。
そういう次第で、いつまでも捜査できる事件は、いつまでも捜査されないことになりかねない、というのが、時効廃止反対の理由の一つです。
その他にも理由はありますが、次回に続く。
明石の歩道橋事故(平成13年、花火の見物客が死亡)で、神戸の検察審査会が、検察が不起訴処分としていた当時の明石署の副所長を「起訴すべきだ」と議決し、業務上過失致死罪で強制的に起訴され、刑事裁判が開かれることとなりました。
検察審査会とは、なじみが薄いですが、簡単に言えば裁判員制度に似ています。
といってもこちらは昭和20年代からある制度で、国民から無作為に選ばれた11人の委員で構成され、起訴されるべき事件であるのに検察が起訴しなかったとき、起訴すべきだと議決して申し入れる。
起訴する・しないを決めることができるのは、検察官だけです。そして検察官が適切な起訴を行っているかを審査するのが検察審査会の役目なのです。検察といえども主権者である国民の監督下に置かれるという建前です。
ちなみに裁判員制度と同じで、検察審査会のほうも、突然通知が来るのだそうです。
しかし、ごく最近までは、検察審査会の議決には何の強制力もなかった。検察審査会が「起訴すべきだ」と申し入れても、検察は「ああそうですか」と聞くだけで良かった。
ところが、近年の検察審査会法の改正で、その議決に強制力が与えられることになった(その要件や手続きの詳細は省略)。裁判員制度と同じく、司法改革の一環として、一層の国民参加が図られたのです。
検察が「起訴しない」と言っている事件を強制的に起訴するとして、誰がその刑事裁判を担当するのかというと、弁護士です。
今回の事件では、兵庫県弁護士会の推薦に基づき、裁判所が検察役の弁護士を選任することになるでしょう。
少し話変わって、弁護士が刑事事件で検察官役を務めるという制度は、実は昔から存在しています。
刑事訴訟法には「準起訴手続」というものがあり、公務員が国民の人権を侵害した場合(たとえば警官の暴行事件など)、検察官は役人同士の仲間意識から、その犯人を起訴しないことがある。その場合、被害者の申立てを裁判所が認めた場合に、刑事裁判が開かれるというものです。
調べてみますと、戦後現在の刑事訴訟法ができてから、現在までの間に、17件の準起訴手続が行われたようです(田口守一「刑事訴訟法」。平成17年までのデータです)。
このように、弁護士による刑事裁判は、戦後60年以上経った今も、全国の裁判所で17件しか行われていないので、弁護士会としてもノウハウが蓄積されていないでしょう。
ですから今回のようなケースでは、刑事事件に相当強い弁護士が選ばれ、検察側も資料をきちんと引き継ぎするなどして協力することが求められます。
ただ、刑事事件に強い弁護士と言っても、元検察官の弁護士(いわゆるヤメ検)だと、古巣である検察が起訴しないと言っている事件にどこまで本気で取り組んでくれるかという疑念が生じますし、かと言ってバリバリの刑事弁護のすご腕の人だと、検察とはいつも対立しているわけだから、検察がきちんと協力してくれるかといった心配もあります。
新制度の下、不安な部分もありますが、この裁判の進行には注目したいと思います。
小沢さんが東京地検に容疑者扱いされていることに触れました。
そういう扱いとなった理由として、一部の報道では、ある市民団体が小沢さんを政治資金規正法違反で「告発」し、地検がそれを受理したためである、という解説がされていました。
「告発」とは何かというと、「告訴」とセットで覚えておいてください。
いずれも、他人の犯罪行為を捜査機関(警察・検察)に申告し、裁判にかけて裁いてくださいと申し出ることを言います。
告訴と告発の違いは、告訴は、その犯罪の被害者本人が行うものを言い、告発は、犯罪とは直接関係のない第三者が行う場合を言います。
今回の市民団体(どんな団体かは知りませんが)は、小沢さんが裏献金を受け取っても実害を受けるわけではないのですが、こんな犯罪は放っておけないから裁いてくださいと申し出たわけで、「告発」にあたります。
では、告訴や告発があれば、それをされた人は直ちに容疑者(被疑者)になるのか、というと、そんなことはありません。
ここでも何度か触れたとおり、人が容疑者として扱われるようになるのは、捜査機関が「こいつは犯罪をやっているな」と疑いをかけた時点です。告訴や告発がなくても、容疑が高ければ、警察や検察自ら捜査に乗り出します。
告訴や告発をすることの意味は、捜査開始のきっかけを与えるという点にあります。
それを受理した警察・検察は、その事件を捜査した上で、裁判にかけるか否かを判断しないといけない。つまり、告訴・告発を受理すると、警察や検察の仕事が増えることを意味します。
だから、所轄の警察署に告訴状を持っていっても、たいてい、警察官は何やかやと言って受理せずに、告訴状をつき返してきます。
たとえば、お金を貸したのに返してくれない人を「詐欺罪だ」と告訴しようとする人はたまにいますが、その程度のことであれば警察はまず受理しません。最初からお金をだまし取るつもりだったという証拠でもないと詐欺罪にできないので、こういうケースは「民事崩れ」の告訴と言って警察官は嫌がります。
だから今回、検察が直々に市民団体の告発状を受理したというのは、よくよくのことなのです。
結論としては、検察が小沢さんを容疑者扱いしているのは、告発があったからそうなったのではありません。むしろ順序が逆で、もともと容疑が高いと思っていたから、告発状を受理したのです。
なお当ブログでは、少し前は小沢一郎幹事長のことを小沢と呼び捨てにしていましたが(理由は顔が憎たらしいため)、最近は「小沢さん」と改めさせていただきました(理由は追いつめられてちょっとかわいそうになったため)。
東京地検による小沢さんの事情聴取について触れます。
注目すべき点は、新聞やテレビでも報道されているとおりですが、検事が小沢さんに「黙秘権」があると伝えていることです。
黙秘権というのは簡単にいえば「言いたくないことは言わなくてよい」という権利なのですが、実はこれはものすごい特権なのです。
たとえば、皆さん方のように犯罪とは無縁の生活を送っている人でも、事件の目撃者になった場合は、「証人」として裁判所に呼ばれる可能性があります。
このとき、「いっさい関わりたくないから証言しません」と言って通用するかというと、そうはなりません。証人として呼ばれたら、公正な裁判の実現のために協力して証言するのが義務とされており、理由もなく法廷に出なかったり、法廷に出てもダンマリを決め込んだりすると、「10万円以下の過料」という、罰金の一種が科せられます(民事訴訟法192条、刑事訴訟法160条など)。
ただ例外的に、「それを話すと自分やその親族が犯罪責任を問われかねない」ような事柄に関することは証言しないことができるし、また、私たち弁護士や医師など、人のプライバシーに関わる仕事をしている者であれば、「依頼者の秘密」を理由に証言拒否できる。
このように、証人になった場合は原則として、何でも正直に話さねばならず、証言拒否権が認められるのは極めて限定的な場合に限られます。
黙秘権は、これとは全然違います。自分に有利なことも不利なことも、一切言わなくていい。質問に対し、ずっと黙っていてもいい。黙っておくことについて理由も要らない。それによって罰を受けることもない。
こんな特権が認められる人々は、世の中に2種類しかいません。被告人と被疑者です。
ご存じのとおり、被告人は刑事裁判を受けている人を言い、被疑者は、マスコミでは容疑者と呼ばれますが、犯罪の疑いをかけられている人です。
これらの人は、裁判所や検察から追及されているという弱い立場にあるため、憲法や刑事訴訟法により、一般の国民には認められない特権が与えられているのです。
今回、東京地検は小沢さんに「あなたには黙秘権があります」と告知したそうですが、これは検察が小沢さんに「うちではあなたを容疑者として扱っています」と言ったのと全く同じ意味です。
新聞は遠慮して「小沢容疑者」という表現を使っていませんが、法的にいえば小沢さんは明らかに被疑者、容疑者なのです(のりピー報道に関しても似たような話をしました。こちら)。
検察が小沢さんを容疑者として扱った理由については、「告発」が受理されたからだ、とも説明されていますが、このことの意味については次回に続く。
お知らせ
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