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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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行政指導についての話が続きます。
 
少し話かわって、本日の朝刊で、京都のミシュラン三ツ星の料理屋で食中毒が出て、市役所がこの店を3日間、営業停止処分にしたというニュースが出ていました。
都道府県や市町村は、飲食店の営業許可権限を持っているので、問題が発生したら、許可を取りあげたり、一時停止させたりできる。これらの処分を「行政処分」といいます。
 
一方、同じく朝刊で、新幹線のぞみ号の不具合で煙が車内に立ち込めた事件に関し、近畿運輸局は、JR西日本に対し改善を求める「行政指導」を行ったとのニュースもありました。
 
きちんと調べていませんが、運輸局、さらにその上にある国交省は、鉄道会社が問題を起こせば、その免許を取りあげたり、業務停止させたりする権限があるはずです。
しかし、のぞみ号の一件では幸い大事に至らなかったし、何よりJRを業務停止させてしまうと大きな混乱が生じます。
 
法律に則って「行政処分」を下すには厳重な要件が必要になるし、その影響の大きさから混乱も生じるけど、「行政指導」なら柔軟に行えるというわけです。
 
朝刊がらみでついでに言いますと、子供の虐待事件が今日も載っていました。
非常に微妙で難しい問題ですが、子供の虐待に際し、家庭裁判所が親権を剥奪できるのはよほどの場合に限られる。しかし親への「行政指導」を柔軟に積極的に行なえば、未然に防げる場合もあるのではないかと思います。
 
全面禁煙に話を戻しますと、すでに書いてきたとおり、飲食店を禁煙にしないといけないなどという法律上の義務はない。ただ、昨今の状況から、禁煙のお店で食事したいという人も多いだろうし、禁煙にしたい店主もいるでしょう。
 
そういうときに、「うちの店は禁煙です」と言ってしまえば喫煙派にはカドが立つけど、「役所の指導ですんで」といえば、納得せざるをえないでしょう。
 
前回の記事の最後に、行政指導とは法的根拠のあいまいな部分を「任意の協力」という名目で押しつけるものだ、と書きましたが、一方で大きなメリットもあります。
それは国民の最新のニーズを、社会情勢に応じて、強制でなく実現できるということです。
 
私個人としては、寿司屋でタバコを吸われると腹が立つので、行政指導でどんどん全面禁煙にさせればよいと思います。一方で、シガーバーなどで葉巻と酒を楽しむのもまた好きなので、そういう国民のニーズも汲んで、行政の柔軟な対応を求めたいところです。
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全面禁煙通達の続きです。

この厚労省の通知には、私たち国民に対する直接の拘束力はないと書きました。
 
ただ、神奈川県では一歩進んで全面禁止を条例で定めたようです。条例はその都道府県内では法律と同じ効力があり、県民を直接拘束しますし、罰則を定めることもできます。
こういう規制も、神奈川県民が選挙で選んだ県会議員が作った条例によるものだから、民主主義の観点から許されるという理屈になります。
 
以下は、そういう条例がない都道府県を前提にして書きます。
 
厚労省が求める全面禁煙を実現させるための方法は、前回も書いたとおり、地域の保健所が都道府県知事の意向を受けて、飲食業の許可を与える際に「全面禁止にしてくれ」といった「行政指導」を行うことによります。
 
行政指導とは、お役所人が国民に対し、強制するわけじゃないけどその意向に従わせようとすることです。強制じゃなくて「お願い」しているだけだから、法的根拠は不要です。
 
飲食店の許可を与えられるためには、きちんと調べたわけではないですが、所定の試験や講習を受けるとか、衛生面について一定の基準を満たすとか、明確な要件が定められているはずで、それをクリアできれば、本来は許可が与えられるはずです。
 
許可の条件として、「完全禁煙にしないとダメ」などということは、どこにも定められていない。健康増進法25条でも、「飲食店などの施設の管理者は、利用者の受動喫煙防止のための措置をするよう努めなければならない」という「努力義務」が定められているだけです。
 
だから保健所は、全面禁煙でないという理由で「不許可」という裁定を下すと、「法律に書かれていないことを理由にして、国民の職業選択の自由(憲法22条)を妨げた」ということで訴えられます。
 
不許可処分を出して訴えられるのも困るし、かと言って厚労省の通達は無視できない、ということで、「厚労省もああ言ってることだし、ここはひとつ、全面禁煙にしてもらえませんか」と指導するわけです。
 
繰り返しになりますが、これは強制じゃないから、イヤなら従わなければよい。「ウチはタバコを吸う客が多いから、禁煙などできない」と言っておけば足りる。それでもし不許可となったら、上述のとおり、司法の力を借りて行政を訴えればよい。
 
しかし実際には、そんな面倒なことを考える人はほとんどいないし、お役所とひと悶着しているうちに飲食店の許可を得るのが先延ばしになると、商売に支障が生ずる。だからたいていの人は、行政指導に従うことになる。
従ってしまえば、自らの意思で全面禁煙にした、という形になり、役所が後々訴えられることはなくなる、というわけです。
 
かように、今回の全面禁煙に限らず、法的根拠のあいまいなことでも、行政指導を通じて、いろいろ国民に押し付けられてきたのが実情です。
 
今回は行政指導に関する一般論になってしまいました。次回もう少し続く予定です。
最高裁の判例は、下級裁判所の判断を拘束する力を持ち、また国会や内閣にも大きな影響を及ぼす、ということを前回話しました。そしてこの効力は、判決文の中の結論に関わる部分、つまり「判決理由」に関する部分に限られます。
 
それ以外の「傍論」とは、結論に関係のない部分です。
裁判所というのは、具体的に起こった事件について、勝訴か敗訴か、有罪か無罪かといったことを判断するための機関です。その裁判所が、事件とは全く関係のないところで、裁判所の見解はこうだと示すようなことは、本来想定されていない。
 
司法試験に受かっただけであって選挙で選ばれたわけでもない裁判官が、事件を裁く仕事から離れて国の政治問題などに口出ししては、民主主義の観点からも問題であるのは明らかだと思います。
 
でも、現実には裁判所はそれをやります。
最高裁の立場としては、「傍論だから拘束力はないんだよ」という建前でそれを言うのですが、それで最高裁が言った以上、下級裁判所と、さらには国会や内閣に影響を及ぼします。もちろん最高裁の判事もそれがわかってやっています。
 
今回の外国人参政権の例でいえば(具体的な事件の内容は前々回の記事を見てください)、選挙権は日本国籍を有するものに限る(判決理由)、とだけ言えば良かったのに、今後法律を変えて地方選挙権を与えても構わない(傍論)、と言ってしまった。
 
それが、最高裁は外国人参政権にお墨付きを与えた、と一部で解釈され、賛成派は勢いづいたわけです。
 
2月19日の産経朝刊で、平成7年当時この判決に加わった裁判官の一人がインタビューに答えて、その傍論を付け加えた意図を話していました。
 
詳細は、インターネットや当日の新聞を見ていただきたいと思いますが、その元最高裁判事は、外国籍の人たちへの配慮のためだ、彼らのことを全く考えていないわけではないことを示したかったのだ、と言っています。
現在、民主党の一部が進めているように、永住者でさえあれば広く参政権を与えて良いとまでは考えていなかったのだ、と言います。
 
確かに、この元の事件は大阪市で起こっており、韓国籍の人が原告になっています。
大阪市に生まれ育った私にはよくわかりますが、市内には何世代も前から日本人と同様に暮らしている朝鮮・韓国籍の人がいますし、私自身にもそういう知人・友人はたくさんいます。そんな彼らに一定の配慮を示したというのは、全く分からなくもない。
 
しかし、ことは最高裁の判決文です。傍論であれ、それが以後、参政権に関する議論にどれだけの影響を及ぼすか、考え付かなかったはずはないのですが。
 
最高裁はこれまで事件と関係のないところで傍論を示してきて、それは「法の解釈の統一」ということで一定の意味はあったのですが、一方で国政全体に不必要に大きな影響力を与えてしまうという弊害があった。
 
今回の一件は、その弊害がここに極まった、という感じでして、私としては、「最高裁も要らんことしてくれたなあ」という思いです。
前回、外国人参政権についての最高裁判決の内容を紹介しました。
最高裁は「外国人に地方選挙の選挙権を与えることは許容される」との立場であるように読める部分があり、この判決にどこまでの「拘束力」があるのかが、賛成派・反対派で議論の分かれ目の一つとなっています。
 
今回はこの「判例の拘束力」ということについて述べます。
前回述べたように、判決には、結論に至る理由づけの部分(以下「判決理由」と呼びます)と、傍論とがあります。判例の拘束力は、このうち「判決理由」の部分に生じるとされています。
 
判決理由の拘束力については、実は憲法の教科書を見ても議論が錯綜しているのですが、とりあえず、以下のようなものだと考えてください。
 
まず、下級裁判所(地裁や高裁)が、最高裁の判決理由に書かれたことと異なる判断をすると、最高裁に上告して審理をやり直してもらうことができる(最高裁への上告が認められるためには、実は比較的厳しい要件があるので、「上告の理由になる」というのは大きい「法的」な意味があります)。
 
では、最高裁の判決理由と異なる判断を下した下級裁判所の裁判官は、何か「違法」なことをしたことになるのか。「拘束力に反する判決を書いたからクビ」とか、そういうことになるかというと、そうはならないので、法的意味において違法となるわけではない。
 
もっとも、最高裁の判断と違う判決を書くような裁判官は、上からにらまれて、たぶん出世の道も閉ざされてしまうので、従わざるをえない。それでも、勇気ある裁判官は、最高裁が間違っていると思えばそれに反した判決を書くし、それが最後に最高裁をも動かし、判例を変更させることも、稀にはある。
 
こうしたことから、最高裁の判決理由には法的な拘束力はなく、その拘束力は事実上のものに過ぎない、と説明されることが多いです。
 
判例の拘束力とはこのようなものです。役所のトップが内閣であるのと同じように、裁判所のトップが最高裁であり、裁判所としての見解を統一させるのです。ですからその拘束力は、国会や内閣には及びません。三権分立の観点からも、それは当然のことです。
 
最高裁が「憲法違反だ」と判断した法律であっても、国会が「合憲だ」と考えれば、国会としてはその法律を廃止する義務を負わない。もっとも、国会や内閣としては、最高裁の判断を全く無視できるはずもないので、実際には、違憲とされた法律は、国会により改正や廃止の措置が行われています。そういう意味では、最高裁の判例は、国会や内閣にも、事実上の大きな「拘束力」を持つと考えてよい。
 
上に述べたのは、繰り返しになりますが、判決のうちの「判決理由」の部分についての話です。外国人参政権に話を戻すと、それに関する最高裁の判断は、「傍論」に書かれています。そのことをどう読むべきかというのが本題なのですが、以下次回に続きます。
鳩山政権下で話題になっている外国人参政権の問題について触れます。
 
最高裁の考えは、外国人に地方選挙レベルでの選挙権を認めることは合憲であるとの立場であると理解されていますが、その判決を書いた判事の一人が「実はそういうつもりじゃなかったんです」と言いだしました。
 
選挙権などの参政権は、国民が自国の政治に参加するための権利で、民主主義の観点から非常に重要な権利であるのは当然です。
民主党政権下において、外国籍の人に地方選挙での選挙権を与える方向での検討がされているようですが、その賛否はさておいて(私は反対)、最高裁がこれまでどう言っていたのかについて述べます。
 
最高裁の平成7年2月28日の判決に、「外国人でも、永住者等でその地域と密接な関係を持っている人の意向を反映するために、法律を作って、地方選挙の選挙権を与えることは、憲法上禁止されていない」(要約)と言った部分があります。
 
外国人の選挙権については、「ぜひ与えるべきだ」という見解(要請説)と「与えてはならない」という見解(禁止説)と、その中間に「与えるんなら与えてもいい」という見解(許容説)があり、最高裁は上記の判決でこの許容説を採用したと理解されています。
それ以来、この最高裁判決が、外国人選挙権肯定派の強力なより所となってきました。
 
否定派は、この最高裁判決をそのようには読みません。
上に挙げた部分は「傍論」に過ぎず、法的な意味を持たない、と言います。
 
「傍論」とは、判決文において、結論と関係のないところで述べられている部分のことを言います。
 
この判決が出されたもとの事件は、以下のようなものでした。
大阪市に在住するある韓国籍の人が、ある地方選挙の際、大阪市の選挙管理委員会に、選挙人名簿に登録してくれと申し出たところ、却下された。その却下処分を取り消せ、名簿に登録して選挙権を与えよ、と申し出たものです。
最高裁は、却下でいいんだ、と言って、この原告たちの上告を棄却しました。
 
上告棄却(原告敗訴)の結論に至る理由として、このとき最高裁は「選挙権は国民固有の権利であると憲法にも書いてあるが(15条1項)、この場合の国民とは、日本国籍を有する人のことを言う」(だから韓国籍の人には地方選挙権が与えられていなくても違憲ではない)と言いました。
 
「判例」というと一般的には、「過去にそういう判決が出た」ということを指しますが、私たち弁護士や裁判官はもっと限定的に捉えていて、法的な意味での拘束力がある判例は、「最高裁が、結論を出すに至る理由づけとして述べた部分」に限られるとしています。それ以外の部分が「傍論」です。
 
韓国籍の人が「選挙権を与えよ」と裁判を起こしたのに対し、最高裁は結論としてそれを認めなかったわけです。その結論を出すためには、「日本国籍を有する人に限られるからだ」という理由づけだけ述べれば良かった。
 
判決文には、さらにおまけとして、「今後法律を変えて、与えるんなら与えてもいい」という部分が付け加わっているわけで、これは本来いらない部分であって、傍論となる。だから法的意味はないんだ、最高裁は明確に許容したわけではないんだ、と解釈するのが、否定派の判決の読み方です。
 
この判決について、当時の最高裁判事が何を言い出したか。長くなったので次回に続きます。
 
小沢さんの政治資金問題は不起訴で終わりかと思っていたら、市民団体が検察審査会に起訴させるべきだと申入れをしたらしい。
 
検察審査会は、少し前に触れたとおり、検察が事件を不起訴で終結させた際に、それでよいかを審査する機関で、以前はその決議には強制力がなかったのが、最近、一定の要件のもとで強制力に起訴されるという効果が与えられるようになった。
 
ですから、市民団体の申入れを受けた東京の検察審査会の判断によって、小沢さんが今後起訴される可能性も出てきたわけです。
 
小沢さんは、東京地検特捜部の捜査が身辺に及んだとき、「こんなことは民主主義社会においてあってはならない」と声を荒げました。
 
検察の動きを、国民から選ばれた審査員が審査するのが検察審査会であり、これは極めて民主的な制度です。小沢さんの好きな「民主主義」に基づいて、その小沢さんが今後起訴されることになるとすれば、皮肉なものです。
 
今回は、小沢さんの事件というよりは、この検察審査会のことが本題です。
検察審査会の決議に強制力が付与されたということは、検察の民主的統制、という観点からは画期的な法改正なのですが、いくばくかの懸念もあります。
 
今回の例で言えば、検察審査会に対し、起訴相当の決議をしないように政治的圧力がかかることはないか。小沢さん自身はさすがにそんなことはしないでしょうけど、その取り巻きの人や支持者らが働きかけをすることも考えられなくはない。
もし起訴相当の決議をしたら、審査員たちはその後、地元の民主党支持者にいじめられたりしないか。
 
検察審査会の判断に強制力がなかったころは、こんな問題はなかったのです。検察審査会の決議はあくまで「勧告」であって、起訴するかどうかは検察が決めていた。
だから審査員も、「いやあ、あの事件を起訴した(または起訴しなかった)のは、検察の判断であって、私たちがそうさせたわけじゃないんですよー」と、言い訳ができた。
 
自らの判断に強い効力が与えられるということは、その判断をする人に重い責任が課せられることを意味します。そして、今回の事件みたいに、政治的な意味あいを持つケースだと、審査員が政争に巻き込まれてしまうというおそれもある。 
 
審査員になる人には気の重い話ですが、検察審査会には適切な判断を期待するとともに、「民主主義」大好きの民主党が間違ってもその決定に介入したりしないよう、注意していくべきでしょう。
前回のブログ更新後も、サントリーとキリンの経営統合の白紙化とか(サントリーには独自路線でいてほしいので個人的にはうれしい)、明石の歩道橋事故で検察官役の弁護士が3人指定されたとか(うち1人は過去に民事事件であたったことがある人でした)、うちの息子が3歩だけ歩いたとか、注目のニュースが日々見られます。
 
でもここでは似たような話が続いてしまいます。すみません。
 
内閣府の世論調査で、死刑制度について「場合によってはやむをえない」と容認する声が85%を超えたと、先日の報道にありました。
 
死刑の是非に関する議論は省きますが、私自身も、死刑は廃止すべきではないと思います。世論調査の結果も、多くの人にとって、驚くような数字ではないでしょう。
 
ただ、死刑制度を容認するにあたっては、明確に意識していただきたいことがあります。
「場合によっては死刑もやむをえない」というその「場合」が、自分自身に関係ないところで起こるとは限らないということです。
 
自分自身や、親族や友人が殺人などの凶悪犯罪に巻き込まれた場合を想定すると、これは当然、犯人が死刑になっても構わない、と思う人が多いでしょう。報復感情として当然のことです。
 
しかし一方、自分は罪を犯していないのだけど、冤罪によって自分が犯人に仕立て上げられ、自分に死刑判決が下された場合はどうか。
 
死刑判決が再審により引っくり返った例は現に存在します。前回も触れた菅谷さんは、不幸中の幸いで無期懲役判決だったため、生きて出てくることができた。
これらはたぶん氷山の一角で、中には、本当に冤罪のまま獄中で死んだ、または首をくくって死刑執行された人も、いるのではないかと想像できます。
 
そしてそれが、自分の身に降りかかってくる可能性は、死刑制度が存在する以上、ゼロではない。死刑を容認するというのであれば、そういう「場合」であっても「やむをえない」と言えなければならない。
 
私は上に述べたとおり、死刑容認派です。
自分が冤罪で死刑判決を受けて、徹底的に争ってもダメなら、殺されても仕方がない、というのが私の考えです。
 
日本の刑事裁判は、99.99%くらいは信用できると思っていますが、人が作る法律や制度は完全なものではありえない以上、事実として間違いは必ず起こる。その場合、制度を選択した国民の一人としては、従わざるをえない。
 死刑を容認する人は、一度はそういった可能性を考えた上で、容認するかしないかを選択してみてください。
 
そしてもう一つ気をつけるべきなのは、内閣や法務省の言うことが、世論調査で85%以上の国民が死刑を支持した、だからたまに間違った死刑判決が出てもやむをえないんだ、といったニュアンスを帯びてきたら、そのような世論誘導は決して容認してはならないということです。
ブログ更新が3日あいた間に、道頓堀「大たこ」立退きの逆転判決、横浜事件の刑事補償決定、小沢さん不起訴、朝青龍の暴行事件と引退、うちの息子が「バイバイ」をするようになったなど、注目すべき事件が多々起きていますが、ひとまず前回の続きです。
 
刑事事件の時効を廃止せよという意見は、一見して誰にでもわかりやすい。
 
殺人事件の被害者の遺族の悲しみは癒えることなく、犯人逮捕に執念を燃やす刑事がいて、もう少しで逮捕に結びつきそうなのだけど、時効が来て捜査が打ち切られて、犯人がどこかで高笑いしている。ドラマに出てきそうだし、現実にもあると思われます。
そんな状況を見れば、誰だって、時効なんていらないというでしょう。
 
しかし、一見不合理に見える制度であれ、それによって守られてきた「目に見えない利益」があるはずであり、制度を廃止するからには、そのメリット・デメリットを慎重に比較する必要があります。
 
時効廃止の「メリット」を検討するためには、上に書いたドラマのような状況が、現実のケースとしてどれくらい存在したか、挙げてみるべきです。
 
そしてそれらのケースで、犯人逮捕ができないまま時効をむかえてしまった理由は何なのか、時効を廃止することによって、犯人が逮捕できた可能性はどの程度あったのか、それを検証する必要があります。捜査の怠慢が理由なら、時効を廃止しても意味がないからです。
 
そして、時効廃止の「デメリット」も考える必要がある。すぐに思い浮かぶのは、冤罪のおそれです。
 
すでに当ブログでも同じ話をしましたが、ある日突然、身に覚えもないのに、30年も40年も昔の殺人事件の容疑者として逮捕されるおそれがある。やってないならアリバイを出せと言われても、30年前の何月何日にどこで何をしていたかなど、証明できる人はいないでしょう。
 
でたらめなDNA鑑定で無期懲役判決を受けた菅家さんの例は記憶に新しいですが、将来、わけのわからない「ナントカ式鑑定」といったものが開発され、「ナントカ式鑑定では30年前の殺しはお前がやったと出た」と刑事から言われたら、たまったものではありません。
 
菅家さんの事件だって、明治や大正時代ならともかく、鑑定は平成2年に行われているのです。今後も似たようなことが「科学的捜査」の名を借りて行われないという保証はない。
 
さらに、前々回に触れたとおり、検察審査会制度の議決が強制力を持つようになったため、検察審査会の判断で何十年も前の事件が蒸し返されることだって考えられます。
 
これまでは時効制度によって、私たち一人ひとりが、目には見えないところで、こういうことにならないよう守られてきたのです。
 
法務省の調査では、時効廃止に賛成という人が90%程度にのぼったそうですが、本当にそれでいいのか、もっと慎重な意見にも耳を傾けるべきであると考えます。
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