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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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唐突な話ですが、私たち弁護士は「時効」を非常に恐れます。
たとえば、知人に貸したお金の時効は10年、商売人同士の貸し借りなら5年、不法行為(交通事故など)は3年、財産分与は離婚から2年で時効消滅するというように、債権の内容に応じて時効期間が異なります。
 
依頼を受けておきながら、業務の忙しさにかまけて後回しにしているうちに時効にかけてしまうと、弁護士として明らかに責任問題となります。だから時効にかかりそうな事件は急いで処理します。
 
さて今回の本題は、刑事事件の時効の話です。
法務省が刑事訴訟法の改正案を作成し、殺人罪など一定の凶悪犯罪(条文上、死刑に値する罪)については、時効を廃止する方向の内容となっているらしい。
 
私の個人的な立場では、過去にも触れましたが、時効の廃止には反対です。
 
私たち弁護士が民事事件を請けおった場合、冒頭に述べたように時効があるから、それまでに処理しようという気になる。弁護士でも警察官でも、人間の心理として、もし時効がなければ、ややこしい案件はずっと後回しにして、「いつか片付けますから」というポーズだけ取っておくことも考えられる。
 
これまた私の狭い経験の中から、現在進行中の事件なので少し抽象的にお話ししますが、私の依頼者で、親族が失踪し、殺人事件に巻き込まれた可能性のある人がいます。その容疑者は指名手配されていますが、事件発生から約5年、未だに発見されず、迷宮入りとなっています。
 
その失踪者が残した財産をどうするかといった問題(相続や失踪宣告など)で依頼を受けたので、情報を得ようと何度か所轄の警察に電話しましたが、何ら進展はありません。そうしているうちに担当者が他の署へ行ってしまったりしました。
 
この警察官たちは、決して仕事をさぼっているわけではないでしょう。
ただ、毎日多数の事件が起こり、目の前の容疑者の逮捕や事情聴取に追われていると、5年前の事件は、どうしても後回しにならざるをえない。
 
それでも、時効というものがあれば、それまでには何とかしようと、警察官だってプレッシャーに思うはずです。その時効がなくなれば、その契機すら失われてしまいかねない。
 
現場の警察官が忙しいのは分かる、だから人員を増やして、迷宮入り事件専門の警察官を置くのだ、といった考えもあるようですが、事態は同じであるように思います。
 
たとえば、現行の時効期間(殺人なら従来は15年。最近の改正で25年になりました)を超えると、その専門の部署に事件が回される、ということになると、所轄の人は、「難事件でも15年たてば自分たちの手を離れる」と考えるだけであって、犯人逮捕のモチベーションが上がるわけではない。
 
専門の部署の警察官だって、15年前の事件をどう捜査するのか疑問です。私の経験した上記の事件はせいぜい5年前なのに、現在、捜査は何も行われていないに等しい。
警察のことを悪く言う趣旨ではありませんが、形だけの専門部署ができたことを言い訳に、現場が手抜きすることも考えられる。
 
そういう次第で、いつまでも捜査できる事件は、いつまでも捜査されないことになりかねない、というのが、時効廃止反対の理由の一つです。
 
その他にも理由はありますが、次回に続く。
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東京地検による小沢さんの事情聴取について書こうと思ったのですが、同じ話題が続くのを避けて、今朝の日経から。
国際離婚の際に、子供の養育権について国際的なトラブルになっていることが多いという話です。
 
日本の民法では、夫婦が離婚すると、未成年の子供に対する親権は、夫婦のいずれか一方が取ります。ところが、外国では、離婚後も親権は双方の親にあるという制度も多いようで、(きちんと調べてはいないですが)先進国では日本のような「単独親権」のほうが少数のようです。
 
では、日本人と外国人が結婚したり離婚したりするときに、どっちの国の法律が適用されるかというと、日本には「法の適用に関する通則法」という法律があって、それによって決まります(詳細は省略)。でも外国にもその国なりの制度や法律があるはずなので、国際的な問題について各国の規定がちぐはぐにならないよう、国家間で条約を取り結んで決めておく必要がある。
 
で、「国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約」という長い名前の条約によると(条約の名前はたいてい長いです)、離婚に際して、父母どちらが子供を監護するにふさわしいかが判断されるまで、「元の環境においておく」ということになっているそうです。
 
これは具体的に何を意味するか。
たとえば、日本人同士の結婚で、夫が愛人を作ったり、妻に暴力をふるったりするので、妻が耐えかねて、幼い子供の手を引きながら「実家へ帰らせていただきます」という状況は、ザラにあるでしょう。私自身、弁護士として似たような状況をいくつも経験しました。
 
国際間でこれをやるとどうなるか。たとえばアメリカ人の夫と結婚し、アメリカに在住していた日本人妻が、同じように子供と一緒に日本の実家へ帰ってきたとする。
これは「元の環境(アメリカ)」から引き離したことになり、上記のハーグ条約に反する。
その結果、アメリカ国内で妻が「誘拐犯」として指名手配されるという、日本人としてはちょっと考え難いことが実際起こっているのだそうです。
 
私は個人的には、離婚後の親権は今の日本民法の「単独親権」でよいと思っています。そして現実として、大半のケースでは母親が親権を取ります。それでよいと思います。
 
離婚調停の場で「親権を取りたい」という男性は少なからずいますが、その多くは、養育費を支払いたくないから、「ポーズ」として言っている(養育費を払うくらいなら自分で子供を引き取る、という交渉材料にしている)だけです。離婚後の親権を引き受けようという真摯な覚悟を持つ父親は、少なくとも私は見たことがありません。

私の狭い経験はさておき、「共同親権」というものが日本でうまくいくとは思えません。ハーグ条約の理念の良し悪しはともかく、日本での実情や常識には合わないでしょう。
日本はこの条約を締結しておらず、先進諸国からは締結を迫られているみたいですが、家族関係という非常にナイーブな問題まで「グローバル・スタンダード」にあわせる必要はないと思います。
唐突ですが、当ブログの趣旨は、身近な法的問題を、専門家以外の方になるべくわかりやすく伝えるという点にあります。そのため、専門家が見れば不正確な部分もあるでしょうけど、あまり細かな議論まで踏み入ることはしません。
 
と、そこまで書いておいて、今回は、前回書いた話題について、少し細かな議論を加筆しようと思っています。民主党が、天皇陛下の中国副主席との会見をゴリ押しした件についてです。
 
小沢が「天皇の国事行為は内閣の助言と承認に基づいて行うから問題ない」と言ったのは、憲法の条文に「形式的には」合っている、と前回書きました。
 
これに対して、新聞等に出てくる識者などの見解によると、天皇が外国人と会見するのは、「国事行為」ではなく「公的行為」であるから、内閣の助言と承認は必要ない、だから小沢はハナから間違っている、との指摘もあります。
 
このどちらが正しいかについて検討します。
(このあたりで面白くなくなってきた方は、今回は読み飛ばしてください)
 
天皇の「公的行為」というものから説明しないといけないのですが、天皇陛下は、憲法に定められた「国事行為」(その内容は憲法6条・7条をご確認ください)を行うだけではありません。
 
公務の合間には、ご飯を食べたり、悠仁さまや愛子さまと遊んだり、大相撲を見物したりされるでしょう。これらは「私的行為」であって、誰に口をはさまれることもありません。
 
他に、国事行為でもないけど、かと言って全くの私的行為でもなく、何らかの公的性質を帯びる行為もあります。これが公的行為です。たとえば、国会開会時の「お言葉」とか、正月の一般参賀などがこれにあたります。
 
国事行為でないから、内閣が助言と承認を行うわけではなく、宮内庁が天皇の公的行為を取り仕切ることになります。もっとも、宮内庁も役所の一つであり、役所のトップは内閣だから、内閣が間接的に公的行為を補佐することになります。
 
だから、天皇が中国副主席と会見する行為は、国事行為と解しても、公的行為と解しても、内閣が直接または間接にコントロールしうることには変わりはありません。
 
ただ、純粋な条文の解釈としては、前回の記事では、憲法7条9号の「外国の大使・公使の接受」にあたると書きましたが、考えてみれば大使・公使とは外交交渉など明確な目的を持ってきた人を指し、物見遊山に来ただけの中国副主席は大使・公使と言えない。
 
せいぜい「外国の要人」であって、それとの会見は、識者の言うように「公的行為」に留まるであろう、と思えます。だから前回の記述を訂正して、小沢の言ってることは「形式的にすら」憲法に合っていないとしておきます。
 
(法学部生向けに注。私的行為以外はすべて国事行為だとする見解も存在しますが、少数説でしょうし、少なくとも従来の政府見解は、公的行為の存在を認める象徴行為説に立っていたはずです)
 
いずれにせよ、憲法上、内閣は天皇の国事行為または公的行為にコントロールを及ぼしうるのですが、時の与党が自己都合で天皇の行為をコントロールすることなど、憲法は想定していないはずであり、民主党は今回やってはならないことをしたという私の考えについては変わりありません。
中国の副主席が、「1か月ルール」の原則を破って、天皇陛下に謁したようです。
最近報道されているとおり、外国の使節が天皇陛下に謁見を望むなら、1か月前に申請しなければならないという宮内庁のルールを、民主党がゴリ押しで破ってしまった。
 
天皇に関する議論は、どうしても、政治的になりがちですが、ここでは極力、法解釈の見地から書きます。
 
民主党の小沢幹事長は、天皇陛下の政治利用だ、という批判に対して「天皇は内閣の助言と承認のもとに国事行為を行う、と憲法に書いてあるのだから、問題はない」と答えた。
 
確かに、憲法7条にはそう書いてあって、その9号には、国事行為の一つとして、「外国の大使・公使を接受する」とある。
だから今回の謁見は、形式的には、憲法7条9号に基づいていることになります(一方、「1か月ルール」は宮内庁が勝手に決めた「お役所の内部通達」に過ぎない)。
 
しかし、日本国憲法が天皇の行為を内閣の助言と承認のもとに置いたのは、天皇が「象徴」としての存在を超えて政治的権力を行使しないようにチェックするためであるはずです。
 
天皇が政治的存在にならないよう、内閣が助言と承認を行う、というのが本来の趣旨であるはずなのに、民主党がやったのはその正反対の、天皇に政治的・外交的働きをさせるために助言と承認を行う、ということなのです。
 
ここで思いだすのは、明治憲法下の「統帥権干犯」(とうすいけんかんぱん)問題です。
明治憲法11条では、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」となっていたのですが、明治憲法も当時の立憲君主制の考え方(外国のことわざで言えば、「王は君臨すれども統治せず」)に基づいてできたものなので、天皇が積極的に軍隊を支配し動かすようなことはなかった。
 
だから軍部が天皇の名を借りて軍事独裁を強め、それに口出ししようとすると「天皇陛下の統帥権を犯すつもりか」と言って黙らせた。
 
立憲君主制のもとでは、国政に関する判断は、天皇を輔弼(ほひつ。施政を助けること。明治憲法55条)する内閣が行うべきなのですが、軍部は、統帥権の判断権限が憲法上明確でないのを良いことに、それは軍部のみにあるとした。それが軍部の暴走を許し、第二次大戦に突き進む一つの原因となったのです。
 
現在の日本国憲法においても、条文には明確に書かれているわけではないけど、憲法の趣旨や成り立ちからして、守らなければならない大原則があり、その原則に照らして、やってはならないことがあるはずです。
 
今回、民主党は「内閣が助言と承認さえすれば、時の政権の自己都合で天皇陛下をいかようにも利用できる」という、本来ありえないはずの憲法解釈を実行に移したのです。
民主党の、憲法や天皇に対するこの態度を、私は決して忘れないでおこうと思います。
押尾学にまたも、麻薬取締法違反で逮捕状が出ました。
 
この事件、こないだ執行猶予判決が出て終わったんじゃないの? と思った方もおられるかも知れませんが、前回のは麻薬の「使用」で、今回は「譲渡」です。同じ麻薬取締法ですが、使用と譲渡では条文が違うので、別の犯罪とされる。
 
憲法には、一度裁かれたら同じ罪で裁かれることはないという「一事不再理」の原則が定められていますが、別の犯罪なのでこの原則は働かない(法学部生向けに注。公訴事実の同一性の範囲では一事不再理効が及びますが、使用と譲渡は併合罪ですから、範囲外となります)。
 
押尾学の容疑は、ご存じかと思いますが、六本木ヒルズのとある密室で女性にMDMA(合成麻薬)をあげて(譲渡)、自分も飲んだ(使用)、というものです。
 
常識的には、譲渡と使用は一体の行為で、先日の裁判で麻薬のことは終わってるんではないか、譲渡のほうも裁くというなら、前の裁判のときに合わせて起訴しておくべきだったのではないか、とも思えます。
 
刑事訴訟法の教科書には、こういうケースは一事不再理を及ぼすべきだ、という見解も出ていますが、それはあくまで学者の議論で、判例・実務は別々に裁くことができるとしています。
 
もっとも、だからと言って、こういう形での再逮捕・再起訴は異例のことで、滅多にないと思われます。
常識的にみて一体の行為を、後から追加で起訴するのは、裁判所にとっても二重の手間になるし、警察・検察としても自ら「私たちには迅速な捜査能力がありません」と言っているのに等しいからです。
 
今回の異例の再逮捕の理由は、報道されているとおり、一緒に麻薬を飲んだ女性が亡くなっている件について、保護責任者遺棄致死罪で再逮捕するためでしょう。こっちのほうはまだ証拠が固まっていないから、麻薬譲渡で逮捕しておいて、保護責任者遺棄致死の証拠を固め、自白を取るのが目的だと思われます。

これは違法な「別件逮捕」ではないか、との疑問も出てきますが、その議論は置いておきます。
 
最後に、いま「再逮捕」と書きましたが、逮捕状が出たのが12月4日ころで、現時点(6日)で押尾学は逮捕されていません。
その理由は知りませんが、警察が今さら押尾学を取り逃がすとも思えないので、押尾学の名誉のために、任意で警察署に出頭するよう警察が呼びかけているところなのではないかと想像しています。
裁判員が被告人に「むかつく」と発言した話について、続き。

これは、裁判官による裁判であればありえなかった事態です。
たしかに裁判官の中には、被告人に対し訓戒をたれたり、叱るような発言をしたりする人もいる。しかし裁判官がこれをやる場合は、相当に節度を守って、被告人に対する敬意を失わずにやっています。

それは裁判官が、プロとして訓練されているからであり、もっと大きな理由としては、人が人を裁くことの難しさを分かっているからです。

ある程度は同じ勉強をしてきた私たち弁護士や、検察官の人にもこれは言えます。司法試験受験生や司法修習生の時代に、ふと、「そもそも犯罪とは何なのか」とか「どうして人が人を裁くことが許されるのか」といった根本的なことが気になることがあります。

裁判官として人を裁く立場になった人たちなら、その問いはますます深刻なものとなり、一生、頭を悩ませることでしょう。

加えて、刑事裁判は時に「冤罪」を生む。間違いなく犯人と思われていた人が実はそうではなかったという例は、特に近年、無期懲役判決を受けて服役していた菅谷さんの件を筆頭に、少なからず挙げることができます。

困難で大きな問題を前にして、それを扱わんとする人は、自ずと謙虚になる。
「むかつく」などと感情のみに走った発言をすることはないはずです。

もちろん、裁判員制度は、そういった職業裁判官の視点と異なる、国民一般の常識というものを刑事裁判に吹き込むために導入されたものです。
しかしここで言う常識とは、真っ当に生きる一国民としての「良識」を指すはずです。

「被告人には腹が立つ、何でもエエから好きなこと言うたれ」というのは、多くの人が感じる、一般的な意味での「常識的」な感覚かも知れないけど、裁かれる人を前に「むかつく」などと発言するのは「良識」には全く欠けます。
被告人が制裁を受けるのは、有罪判決が確定して刑務所に行ってからであって、法廷では、節度と良識を持って扱われるべきです。

前々回に書いたように、裁判員裁判には、専門家同士の慣れ合いではなくて、セオリー通りに訴訟が進むようになるという、望ましい点がある反面、良識に欠ける人が不可避的に裁判に加わってしまうことになるという難点もあります。

この制度がうまく行くかどうか、現場の裁判官たちは、まだまだ綱渡りの運営を強いられるのでしょう。
先週のニュースですが、仙台地裁で裁判員が被告人に「むかつく」と発言したとか。
裁判員制度の問題点が改めて浮き彫りになった感がありますが、これについて触れます。

報道によると、裁判の内容は、39歳の男性被告人が起こした強姦致傷罪の事件で、ある男性裁判員は、被告人の受け答えに反省の気持ちが見られないからということで声を荒げたと。

前回、弁護人は何を言っても良いわけではなく、証拠にないことを弁論すると「異議」が出される、という話をしましたので、その延長で検討します。

「異議あり」などというセリフが出てくる場面としては、証人尋問の場がドラマなどでもポピュラーかと思います。
検察官が、誘導尋問や誤導尋問など(その意味は省略)、不適切な質問をしたときに、弁護人が「異議あり」と立ち上がって、その質問をやめさせる(もちろん、弁護人の質問に検察官が異議を出すこともある)。

では、弁護人が、「敵」である検察官ではなく、裁く立場である裁判官の質問に異議を出すことができるかというと、これはできます。今、根拠条文を確認せずに書いていますが、実際の法廷でも、武闘派の弁護士などは裁判官にも喰ってかかります。

冒頭の事件では、「むかつく」と発言した裁判員を、裁判長が制止し、その裁判員もそれに従ったそうですが、仮に裁判長が制止しなかったとか、裁判員が制止に従わなかったとかいう場合、弁護人はこの裁判員に異議を出せるのか。

これは、可能なはずです。これも根拠条文を確認していませんが、裁判員は裁判官と同じ立場で審理に臨む建前である以上、可能と思われます(間違ってたらご教示ください)。

そして「むかつく」発言など、適切か不適切かといったこと以前に、そもそも「質問」ですらない。

しかし弁護人としては、ここで異議を出すのは難しいでしょう。
それは前回同様の理由で、裁判員がプロでないからです。プロの裁判官なら、武闘派の弁護士相手でも冷静に判決を書けますが、裁判員なら、「私たちに喰ってかかる、けしからん弁護士だ」ということで、刑罰が重い方向に振れることは充分考えられる。

かくて、どんな不適切な質問や発言にも、被告人や弁護人が異議を出せないまま、裁判員が被告人をなじり続ける状況が生じうる、それが裁判員制度下の刑事裁判であることが明らかにされたわけです。

この話、次回に続く。
地味な記事ながら、弁護士として興味深かった事件です。
神戸地裁での裁判員裁判で、弁護人の「最終弁論」に検察官が「異議」を出したらしい。

強盗傷害罪の事件で、弁護人は「被告人の供述調書は、警察官の作ったストーリーに沿ったものだ」という趣旨の弁論をしたところ、検察官が「異議あり」と言った。裁判官はその異議を認めて、弁護人は弁論のその部分を撤回することになったそうです。

刑事裁判の最後には、検察官が「被告人には懲役何年が相当だ」という「論告求刑」を行い、そのあとに弁護人が「無罪だ」とか「執行猶予を」などといった「最終弁論」を行います。
このとき弁護人は、被告人をかばうためなら何を言っても良いというわけではなく、きちんと「証拠」を根拠にして言わないといけません。

上記の弁護人は要するに、「やったこと自体は認めるけど、供述調書は警察官の言うままに被告人が誘導されたため、被告人が実際以上に悪人に書かれている」ということを言いたかったのです。
しかしそれなら、裁判の最初の段階で、「調書には信用性がない」と主張した上で、調書を作った警察官を証人に呼んできて、その作成経過を証言させるなどする必要がある。

それをせずに、最後になって唐突に、証拠のどこにも載っていない、法廷で誰も証言していないようなことを言いだすのは、検察に対する不意打ちであって認められないのです。

だから私自身も、審理が1日で終結する事件では、最終弁論の準備には慎重になります。
事前に最終弁論の内容を書いた書面を作っておくのですが、法廷で被告人が、打合せのときとは異なる弁解をした(こちらが予定していた証言をしなかった)ため、検察官が論告求刑を読み上げている間に、手元で書面をこっそり訂正することもあります。

書類はもちろんパソコンで打ち込んでいるので、ボールペンで訂正すると、「うまく証言が引き出せなかった」ということが検察官と裁判官にばれてしまうのですが、それでも、証拠にないことを弁論して「異議あり」と言われるよりはマシです。

もっとも、実際には、弁護人が証拠から少々はずれたことを言っても、検察官があえて異議を出すことはあまりないように思えます。弁護人がテキトーな弁論を行っても、プロの裁判官がそれに引きずられて判決を誤ることはありえないですから。
(ちなみに私も、最終弁論で異議を出されたことはありませんが、それは私がちゃんとした弁論をしているためなのか、検察官が見逃してくれているためなのかは知りません)

今回、検察官が異議を出したのは、やはりこれが裁判員裁判だからでしょう。裁判員はプロじゃないから、弁護人の言ったことに引きずられることを懸念したわけです。

従来のプロ同士の刑事裁判なら、弁護人が言いたいことを言ってもある程度は許される部分はあったように思いますが、今後は「セオリー通りにやらないと異議が出される」ということで、良い意味での緊張感が法廷にもたらされるのではないかと思います。
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