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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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前回、「俳優の不祥事」と「作品のお蔵入り」には因果関係がないのではないか、ということを書きました。
 
法律上もそんな決まりはありません。むしろ、「出演者が法律違反を犯した場合はその関係作品を上映してはいけない」といった法律を国が作れば、表現の自由に対する抑圧になります。
 
もっとも、放送局や製作会社など(以下まとめてマスコミと言いますが)の肩を持つとすれば、彼らにも言い分があるでしょう。つまり、「電波は『公器』であり、不祥事を起こした人の映像や音声を乗せるわけにはいかない」ということです。
 
しかし、ノミ行為をした志村けんとか、公園で裸になった草彅くんなども、すぐテレビに復帰しましたし、刑事裁判が現在続いているとか、執行猶予中の身であるような人も、テレビにばんばん出ています。私はそれが悪いとは全く思いませんが、自主規制するというのなら、そういう人も一切出さないようにしないと一貫しない。結局、このような自主規制は、非常に曖昧なものでしかない。
 
もっとも(…と、またマスコミの肩を持ちますが)、そのような自主規制がどうして行なわれるかというと、やはり、何か気にくわないことがあったらすぐクレームをつけたがる視聴者が存在するからです。だからマスコミとしては無難な内容にせざるをえず、不祥事を起こした人の作品は当分自粛するというのも、理解できなくはない。
 
しかし(…と今回はマスコミを上げたり下げたりしますが、様々な立場を考慮しながら落とし所をさぐるのが、私たち法律家の思考方法です)、マスコミの対応は気持ちの上ではわかるとしても、それだけで直ちに、法律上の因果関係があると見てよいわけではない。
 
結局これは「不祥事、即、お蔵入り」という事実関係が、「マスコミが過敏に自主規制をしただけ」にすぎないのか、「法的レベルにおいて因果関係を認めてよいほどの当然の結びつきがある」と見てよいのか、という問題なのです。
 
(どちらに転ぶかわからない問題ですので、実際には、多くのケースで、事前に契約で「法律に触れるようなことをした場合は違約金いくらを支払う」と取り決めておくことが多いと思いますが、それがないと、裁判で決着させることになる)
 
この問題を判断するのは裁判所の裁判官ですが、こういったことは物理的・科学的に証明できることでもないので、結局は「社会通念」で考えざるをえない。裁判所も国家機関として、主権者たる国民の意思と乖離してよいわけではないので、裁判官が、国民の世論や常識を取り入れながら決めることになります。
 
ということで、東京地裁はどう判断するのか、注目したいと思います。
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「因果関係」に関して2つの事件に触れます。
 
阪神ファンの男性が、甲子園で観戦中にメガホンで女性を叩き、後遺症が残ったとして1850万円の賠償を求められた裁判があり、大阪地裁は男性に24万円の賠償を命じたとか(11日)。
 
女性が主張する「目まいや耳鳴りが今も続いている」との点は、メガホンで叩かれたこととの「因果関係」が認められないとして、せいぜいケガの治療費程度の賠償に留まりました。
 
当ブログでも何度か取り上げたと思いますが、ある結果(目まいや耳鳴り)についての賠償を求めようと思ったら、その結果が、原因となった事件(メガホンでの殴打)のせいで起こったということを証明する必要があります。これを「因果関係」と言います。
 
原因と結果の因果関係はどういう場合に認められるかについてはいろいろ議論がありますが、ひとまず、「そんなことをしたら、当然そういう結果が発生するだろう」と言える必要がある、とでもご理解ください。
 
さて、今回の本題は、のりピーが声優をしていたアニメを製作していた業者が、のりピーの覚せい剤事件のためにアニメを上映できなくなったとして、2100万円の賠償を求めて東京地裁に提訴したという件です。
 
この件でも、因果関係が一つの争点になると思います。
製作会社が主張する2100万円の損害は、制作費や、上映により見込まれた収益でしょう。「アニメが上映できないせいで、それだけの損害が生じた」というのが「結果」です。その「原因」は「のりピーが覚せい剤事件で有罪となったこと」だというのが、原告の主張です。
 
さて皆様は、ここで原因と結果に因果関係があるとお感じになるでしょうか。
俳優やタレントが不祥事を起こせば、当然、その人が出ていた作品はお蔵入りにならざるをえない、だから因果関係はある、という考え方もあるでしょう。
 
しかし考えてみれば、この原因(不祥事)と結果(お蔵入り)は、必然的に結びつくものではない。出演者が問題を起こしても、作品自体に罪はないのに、なぜ見れなくなるのかと、釈然としない思いをするのは私だけではないように思います。
 
製作会社が勝手に「自主規制」しただけであって、のりピーの事件とアニメのお蔵入りは当然そうなる関係とはいえない。気にせず「のりピー最後の肉声!」とかいう宣伝文句で売り出していればきっとヒットしたし、損害も発生していなかった。だから因果関係はない、という判断も充分ありうるのではないかと思います。
 
この件についてもう少し続く予定。
鳩山さんの辞意表明があったり、横浜で弁護士が刺殺されたりと、大変なことが起こっていますが、ひとまず前回の続き。
 
今回の京都地裁の判決が今後及ぼす影響について、最後に触れようとしています。
 
最高裁がある法律を違憲だとすれば、通常、その法律は国会によって改正または廃止されたり、内閣によって運用を変えられたりするのですが、今回は地方裁判所レベルの判決なので、直ちにそうはならないでしょう。被告である労基署は、おそらく控訴して、裁判が続くのではないかと想像します。
 
京都地裁は、「女性7級、男性12級は差が大きすぎる」と言っているだけで、ならば何級で計算すればよいかは言っていない。だから労基署としては「7級じゃないといけないんですか。8級じゃダメなんですか?」と疑問を持つでしょう。そのあたりは、高裁・最高裁と争われていく中で、妥当な算定方法が検討されるのかも知れません。
 
さて、さらに視野を広げると、この判決は、本事件以外にも、大きな波紋を広げる含みを持っているようにも思います。
すなわち、この判決は、ある時代には当然と思われた男女差も、時代により捉え方が変遷するのだと多くの人に意識させたのであり、そして多くの人が長年「その程度の男女差は当然だ」と思っていた事柄についても、慎重に見直しをさせるきっかけを作ったのです。
 
労災保険法ができた昭和22年ころであれば、男性が顔にケガしようが「男は顔など気にするんじゃない」と言われて終わりで、それで納得する人も多かったでしょう。でも現在は、「イケメン」がもてはやされるように、男性も顔が大事だという意識が浸透しつつある。京都地裁判決は、そういう国民意識を汲みとったのです。
 
それを考えると、今後、顔の傷に留まらず、いろんな男女差について考え直す動きが生じるかも知れない。
 
たとえば、お茶の水女子大学という、国立の女子大がありますが、国が作った大学であるのに、男子は入学したくても入学できない。これは国家による男女差別にならないか。
 
女子師範学校などの前身を経て、戦後この大学ができたのは、当時まだまだ女子の就学率が男子に比べて低く、だから国費を使ってでも女性の教育を充実させないといけないという要請が高かったためでしょう。しかし現在の男女の就学状況からみて、女性のみに国費を多額に注ぎ込まなければならないほどの落差があるとは思えない。
 
だから今後、お茶の水女子大学にぜひ入学したいという男子が、願書を出して却下され、お茶の水女子大学を訴えて、というような事件が…おそらく実際には起こらないとは思うのですが、それほどのインパクトを持ちうるのが今回の判決であった思います。
前回の続き。
京都地裁は、顔の傷への補償について、男女全く同じであるべきだと考えたのか。
 
このあたり、判決文そのものを読んでいないので、正確にはわかりません。
ただ裁判所がこの問題を検討するにあたっては、「果たして男女の差をどこまで認めていいか」という抽象的な議論をしたのでなく、「当該事案についてその当事者にどこまで不都合が生じているか」を考えたのは間違いない。
 
新聞報道によりますと、この事件の原告男性は、顔などに火傷あとが残って、労災保険法の定める障害等級で「男性の外貌に著しい醜状を残す」として12級と認定された。これが、「女性の外貌に著しい醜状を残す」場合は、等級が5つ上がって7級とされています。
 
具体的な違いは、12級の場合に得られる補償は、「年収の約半分」の一時金です。7級だと、「年収の約3分の1」ですが、これが年金として以後毎年、支給されます。原告の男性は35歳で、これから何十年の人生があるだろうから、得られる労災給付は、7級か12級かで大きく異なる。
 
今回、京都地裁の裁判官が違憲判決を出すにあたって、間違いなく念頭に置いていたであろうと思われる最高裁の判例は、憲法をかじった方なら誰でも知っている「尊属殺重罰規定」違憲判決(昭和48年4月4日)です。
 
昔の刑法の規定では、通常の殺人罪は3年以上の懲役か死刑で、ただし親など尊属を殺した場合は、無期懲役または死刑という厳しい刑罰が定められていた。
 
その時代に、ある父親が、自分の娘に対し長年に渡る性的虐待を行い、思い余った娘が父を殺害して、自首したという事件がありました。
 
尊属殺人ですから最低でも無期懲役。とはいえ情状酌量などの条文をあてはめて、懲役3年半までに軽くしてあげることはできるのだけど、執行猶予にはできない。懲役3年を超えると、執行猶予にできないと刑法で決まっているからです。つまり、どんな悲惨な状況で親を殺したとしても、3年半は必ず刑務所に行かないといけなかった。
 
この規定を違憲とした最高裁はこう言いました(以下要約)。「子が親に対し尊重報恩の念を持つべきであるのは当然のことだから、尊属殺人を普通殺人と別に扱うこと自体は構わない。しかし、それにしても尊属殺の場合は刑罰が重すぎる。これは子を親との関係において不当に差別するものだ」と。
 
今回の京都地裁も、同じ論理をとっているのではないかと想像しています。
つまり、顔の傷への補償について、男女全く同じに考えるべきだ、とまでは言っていない。
適切な男女差はあって然るべきである。しかし、現在の労災保険法は、同じケガでも、男性なら一時金、女性なら一生に渡る年金としており、落差が大きすぎる。
 
顔の傷によって受ける活動の制約や、精神的苦痛において、男女差はあるだろうけど、この支給額の落差を正当化できるほどの差はない。差はあってもいいけど、その差が大きすぎる、という判断だと思います。
 
この判決についてもう少しだけ続く予定。

地方裁判所が、注目すべき「違憲判決」を出しました。

ある男性が職場での作業中に顔に大やけどを負ったことについて、労災保険法は、男性の顔の傷に対する労災補償を、女性のそれに対するよりも安く規定しているのですが、それが憲法の「法の下の平等」に反するとして、京都地裁は、安い金額での給付決定を取り消しました(27日)。

顔の傷に対する補償や賠償の男女差については、当ブログでも過去に取り上げたことがあり、常識や社会通念からして、女性のほうが高くても当然だろうと書きました。こちら
上記の京都地裁判決は、そうは考えていないようでして、改めてこのことを検討したいと思います。
 
上記の裁判で、法律を作った国側は、女性への補償のほうが高い理由として、「女性は接客業に就く割合が高く、顔に傷があると社会的に制約を受けることが大きいからだ」と述べました(他にもあるけど省略)。
 
この点について京都地裁は、「男性であっても、法務従事者や美容師など、多数の人に接する職業に就くことが多いから、それだけで直ちに男女差を認めてよいことにはならない」と指摘しました。
 
「法務従事者」とは、私たち弁護士も含むと思われます。
確かに、今や法律相談に行こうという際にもインターネットで法律事務所の情報を調べることが当たり前に行われています。しかし一般の方々には、各弁護士の能力の差などわからない。そうなると結局、「見栄え」で判断する方も多いでしょう。
 
見栄えで損したり得したりすることは、女性だけでなく男性も同じです。だから京都地裁のこの点の指摘には、私も首肯するところが大です。
 
とはいえ、顔に傷があることによって負う社会的な制約や本人の精神的苦痛というのは、男女全く同じとは言えないと思います。
 
私自身を例にして言えば、私は小学生時代に木から落ちて左頬をケガして、その傷は今でも残っていますが、それが人生において差し支えを生じたことは全くありません。子供のころは「元気そうでいい」と言われたし、大人になってからも、人によっては「カッコいい」と言ってもらえることもありました。
 
しかし、女性の顔の傷を「かわいい」「美しい」「セクシー」と思える人は、おそらくいないのではないでしょうか。男性の場合と違って、「かわいそう」としか思えない。ことの善し悪しはともかくとして、正直そう思う人が多いからこそ、女性の顔の傷に対する補償金額は、これまで男性より多めに設定されていたはずなのです。
 
京都地裁の今回の判決は、それに一石を投じたと言えますが、京都地裁の真意は何か、その点の考察は次回に続きます。
プロ棋士の加藤一二三(ひふみ)九段が、東京地裁から、「ネコのエサやり禁止」の命令を受けたそうです。
 
加藤一二三と言えば、少年のころからケタはずれに将棋が強く、中学生にしてプロ入りし、「神武以来の天才」と言われました。「神武」とは日本の初代天皇のことですから、日本の歴史に類を見ないほどの天才ということです。
 
もっとも、加藤一二三がプロ入りした時代は、15世名人の大山康晴と、16世名人の中原誠の全盛期であり、この2人に挟まれて、「神武以来」と言われたほどの活躍は見せていません。
 
大山康晴がラオウで、中原誠がケンシロウだとすれば、加藤一二三はトキです。充分すぎるほど強いけど、もっと巨大な存在がいたために、すこしかすんでしまう、そんな方でした(あくまで、20数年前に将棋少年だった私の個人的な見解です)。
 
それはともかく、この加藤一二三が、自宅近隣にやってくるノラ猫にエサやりをするため、ノラ猫が住み着いてしまい、周辺住民が迷惑に思っていた。住民らが加藤一二三に、それをやめるように求めて裁判を起こし、東京地裁は、エサやりの禁止と、周辺住民への慰謝料の支払いを命じたというわけです。
 
ネコにエサをやるな、という判決は珍しいケースだと思いますが、裁判所はこのように、一定のことを「する」ように命じたり、または、「しない」ように命じたりすることができます。前者は「新聞に謝罪広告を掲載せよ」というのがその例で、今回のは後者の例です。
 
後者の類型で良く見られるのは、「何ホン以上の音を出すな」「煙を出すな」など、生活から生じる騒音や臭いなどの停止を求めるパターンです。「ネコにえさをやるな」も、この類型といえるでしょう。
 
ただ、多くの人が一定の地域で日常生活を送っている以上は、テレビの音や、子供の声や、サンマを焼く煙が隣家から漏れてくるのは、ある程度は仕方がない。ネコやハトにエサをやる行為も、直ちに違法とも言えない。ある程度は「お互い様」とガマンしてやらないと、特にこの狭い日本では暮らしていけない。
 
だからこれらの行為が禁止されるのは、それが周辺住民の「受忍限度」(ガマンしてやるべき限度)を超える場合に限られます。加藤一二三のエサやりは、社会通念に照らして「受忍限度」を超えていたのでしょう。
 
ちなみに、禁止命令に反してネコにエサやりを続けるとどうなるかというと、裁判所の人が加藤一二三を取り押さえにくる、というわけではなく、エサをやるごとにいくらかの罰金を払わないといけない、ということになります。
 
加藤一二三は高裁に控訴してまだ争うようですが、神武以来の天才が、ネコのえさやりのことで法廷闘争を続けるとは、もと将棋少年としては少し寂しい気がします。
「普天間の問題は雲の上の話」と言って先日批判を浴びた民主党の山岡賢次議員の、民事裁判のお話。
 
週刊新潮の記事(他人に自分の秘書の給与を肩代わりしてもらったという内容)で名誉を毀損されたとして、山岡議員は新潮社に対し1000万円の賠償を求めて裁判をしていたが、今回、山岡議員側が「請求放棄」し、裁判は終結したとのことです(12日読売夕刊など)。
 
請求放棄とは、民事裁判の原告となって被告を訴えていた側が、「私の請求は根拠がありません」と裁判を終わらせることで、これによって原告敗訴・被告勝訴が確定します。
 
原告側としては、これまでやってきたことが無駄になるわけだし、何より、自分からケンカを売っておいて「負けました」というのと同じですから、恥ずかしいことでもある。
 
私はこれまで、請求放棄というのは民事訴訟法の教科書の中でしか見たことがなく、私自身が依頼を受けた事件で請求放棄をした(またはされた)ことは一度も経験していません。それくらいに珍しいケースです。
 
ではなぜ今回、山岡議員は請求放棄したのか。
新聞記事によりますと、山岡議員やその弁護士は、「週刊新潮の記事は事実無根」との主張は変わらないが、「忙しくて訴訟に対応する時間がない」とのことだそうです。
 
しかし、それを言うなら裁判をやってる当事者はみな「ヒマ人」なのか、となるわけです。うちの依頼者も含め、裁判を行っている人は本来の仕事などで忙しいながらも訴訟に対応しているわけです。裁判をやる以上、弁護士と打合せをしたり、裁判所に出廷したりする必要が生じるのは最初からわかっていたはずです。
 
「忙しい」と言ってなかなか打合せに来てくれない依頼者はたまにいますが、だからと言って「負けでいいから請求放棄してくれ」という人は、少なくとも私は見たことがありません。
 
いかに依頼者が忙しくても、弁護士から請求放棄を勧めることはあり得ないので(そんなことをすると懲戒モノ)、山岡議員自身が、よっぽどこの裁判をやめてしまいたかったのでしょう。
 
最初は派手なことを言っておいて、それを現実的に遂行することなく、ダメになって投げ出してしまう。まさに最近の民主党の姿勢が民事裁判の場面にも表れたように思えます。国政はこれ以上投げ出さずにやってほしいところです。
JR西の脱線事故で、歴代の3社長が、検察審査会の決議に基づいて「強制起訴」されました。

検察は彼らをいったん不起訴にしたのですが、(ここでも述べたとおり)近年の法改正により検察審査会の決議に一定の強制力が与えられたことで、検察の判断が覆されたわけです。
 
検察はこれまで、「必ず有罪判決を取れる」という確信がない限りは起訴しませんでした。
それでも、有罪か無罪かが微妙なため検察が慎重になって起訴しなかった事件の中にも、裁判にかけてみれば有罪が認められていたというケースは、これまでにもそれなりに存在したと思われます。
 
今回の制度改正は、本来なら有罪判決が下されるべきなのに検察がメンツを考えて不起訴でうやむやにした場合でも、きちんと裁判にかけて、公明正大に白黒つけてもらえるという、一定の意味はあると思います。
 
しかし、今回のJR社長の起訴が妥当だったかどうかについては、個人的には疑問に感じています。
 
もちろん、事故を起こしたことの責任は、運転士個人のみでなく、企業自体に問われるべきです。そのための制度は昔から存在しています。使用者責任(民法715条)がそれで、運転士が事故を起こしたことの賠償責任はJR自体に問うことができる。
 
問題は、金銭的な賠償を企業に求めるのとはまた別に、社長個人に、懲役刑などの刑事責任を負わせる必要があるか否かです。
 
それを肯定するなら、たとえば会社の営業マンが勤務中に交通事故を起こした場合、社長も刑務所に行かないといけなくなります。それを一般論として認めてしまうと、企業活動に計り知れない打撃を与えることになるのは明らかです。
 
そしてこれまでは起訴・不起訴の判断を、プロとしてのキャリアと能力を持つ検察官が、自ら責任を持って決めたことが最終決定になったのですが、これからは、検察審査会を構成する一般市民が「多数決」で決めることができるようになったわけです。
 
この制度改正が良かったのかどうか、私個人は疑問なしとしませんが、ひとまず今後の運用を見守りたいと思います。

いずれにせよ、JR社長の刑事責任を問う裁判が始まったわけで、今回の検察審査会の判断を裁判所がどう受け止めるかに注目したいと思います。
 
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