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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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のりピーの一連の報道でかすんでしまった感じの押尾学の事件ですが、報道によると、最初「違法な薬と思わなかった」と供述していたのが、最近、「違法なものとわかってました、すみません」と認める方向に変わってきたとか。

供述が変わったのは、警察が問い詰めて自供させたか、弁護士が正直に話すよう説得したのか、そのどちらかか、おそらくはその両方でしょう。

想像するに警察官は、
「違法と思わんかった言うんやったら、お前はMDMAをフリスクみたいに街なかでバリバリ食べたことがあるんか? 目の前の友達がフリスク食べて急に気を失ったら普通は救急車よぶやろ、逃げたのはヤバいもん飲ませたと分かっとったからやろ?」
などと取調室で追及したものと思われます(実際は大阪弁ではなく東京弁でしょうけど)。

「違法と思わなかった」で言い逃れできるものではないというのは、ここでも少し前に書いたとおりなので、面会に来た弁護士も、「ここは素直に認めたほうがいいでしょう」と説得したはずです。

容疑者に面会に来た弁護士というと、世間的には、「容疑者に悪知恵を吹き込んで容疑を否認させる」というイメージがあるかも知れません。

たしかに冤罪の疑いが相当程度にある場合は、「不用意に『私がやった』と言わないように」と申し入れることはありますが、そういうケースは少数です。
逆に、容疑は間違いないにも関わらず「俺はやってない」と言う人に対して「その弁解はまず通らないから、素直に認めたほうがよい」と、自白を勧める場面が多いです。

だから私が刑事事件で警察署に面会に言っても、現場の警察官はたいてい、こころよく受け付けてくれます。

弁護士が面会に来るまでは、かたくなに黙秘や否認を続けていた容疑者が、弁護士に勧められて自白することも多いです。そしてその結果、情状酌量してもらって早く釈放されたというケースを、私自身、何度も経験しています。

冤罪が疑われる事件で、弁護士と警察・検察が鋭く対立するケースも中にはありますが、多くはこのような形で、警察官と弁護士がある意味「協働」している部分はあります。どちらも、立場は違えど、刑事事件を法律に則って適切に処理するという職責を負っているからです。

押尾学が、所属事務所や弁護士の力で、やったことをもみ消してくれると期待したのかどうかは知りませんが、上記の次第で、弁護士にそのような働きを求めるのはそもそも間違っていると言えます。
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のりピーネタの番外編です。

20日発売の「女性セブン」(9月3日号)に私が登場しています。
(女性セブンHP http://josei7.com/

「覚せい剤事犯に詳しい弁護士」という触れ込みで、のりピーの事件にからんで、女性の覚せい剤犯罪のことについてコメントしております(60、61ページ)。

私が「覚せい剤事犯に詳しい」のかどうかはともかく、よろしければご一読ください、と宣伝料はもらってませんが宣伝しておきます。

一昨年は「夕刊フジ」に何度か登場させていただき、昨年は、「消費者法ニュース」という一般の方は読まないであろう雑誌に手記を地味に載せていたりしました(平成20年10月号、医療過誤訴訟に関する記事 http://www.clnn.net/number/news077.html )。

しばらくぶりの誌面登場で、今回は写真入りではありませんが、いつか女性セブンの表紙を飾れるようにがんばりたいと思います(ムリ)。
皆さまお盆はいかがお過ごしでしたでしょうか。

私は子供も小さいため、特に遠方に出かけることもなかったのですが、実家に「里帰り」(といっても同じ大阪市内ですが)して、先祖に思いをめぐらせていた、と言えば大げさですが、仏壇のある居間で酒を飲んでいました。

私の父方の祖父は、戦争中は確か二等兵だったそうで、無事生き残りました。私の父(3年前の夏に心臓の病気で急死しました)は戦争中に生まれているはずなので、祖父が開戦直後に戦死していたりしたら、私は存在しなかったことになります。

さらにさかのぼると、ウチの先祖は土佐(高知県)の藩祖・山内一豊に行き着きます。司馬遼太郎の小説で大河ドラマにもなった「功名が辻」の主人公です(といってもドラマでは妻役の仲間由紀恵が主役扱いでしたが)。
山内一豊は関が原で東軍(徳川家康)に付いたおかげで、土佐20万石をもらいました。

大阪出身の私としては、家康よりも豊臣秀吉のほうに思い入れがありますが、400年前、山内一豊が西軍についていれば、山内家は滅亡し、私も存在しなかったかも知れません。

大阪冬の陣・夏の陣には、細川忠興(細川ガラシャの夫ですね)から大阪の山内家に、出陣するよう要請がきて、その手紙が代々、ウチに残っていたそうなのですが、その原本は今、大阪城に寄贈してあるらしく、私は見たことがありません。

時代が少し下って明治維新のとき、殿様だった山内容堂は、坂本龍馬が発案した「大政奉還」の建白を徳川慶喜に提出して受け入れられます。
その後、土佐藩山内家は、藩の下級役人であった岩崎弥太郎に財産を譲り、その岩崎が会社をおこして、それが現在の三菱グループのもとになります(たぶんそのへんの話は次期の大河ドラマ「龍馬伝」で描かれるはず)。

私の実家はそのころ(明治維新のとき)から、今の場所(大阪市東成区)にあったはずなのですが、土佐藩の大阪屋敷は今でいう大阪市西区にあったそうです。だから西区に今でも「土佐稲荷神社」という神社があり、「土佐堀」という地名も存在します。
そのへんの関係は、いつか調べてみたいと思っていますが、なかなか機会と時間がありません。

子供が大きくなったら、夏休みに学習塾など行かなくて良いので(私も行ったことがありません)、お盆にはそんな話を一緒にしてみたいと思っています。

この国と、国の歴史と人々と、いろいろなことがあって、今の自分が生かされている、ということに思いをはせてみたいと思っています。

ということで当事務所もお盆休みが明けました。引き続き職務に邁進いたします。

・・・・・・・・・・
今回は雑談でしたが、次回は再びのりピーネタに戻って、のりピーは不起訴になるのか否かについて触れたいと思います。
暑い日が続きますので(ということを言い訳に)、職務に全く関係なく雑談を書きます。

最近、「ハイボール」に人気が出ているようです。
ハイボールとは、ウイスキーをソーダで割ったものと理解しておいてください。
広義には、「強いお酒を炭酸やジュースで割ったもの」を広く指すらしいのですが(「酎ハイ」とは「焼酎のハイボール」の意味です)、いま広まっているのはウイスキーのソーダ割りだと覚えておけば間違いないです。

昔は、サントリーが「トリス」という安いウイスキーのハイボールを流行らせましたが、最近のブームも、やはりサントリーの「角」ウイスキーの宣伝が起爆剤になっているのでしょう。

私はここ10年ほど、ハイボールが好きでして、バーに行けば必ずオーダーしますし、自宅でもウイスキーをソーダで割って飲んだりしています。居酒屋ではあまり飲みませんが、最近では居酒屋などでも出てきます。

最近再びハイボールが広く飲まれるようになった理由として、どこの新聞かは忘れましたが、経済的事情を挙げる解説がありました。
居酒屋などで飲むハイボールは、生ビールのジョッキよりは安い。また自宅で飲むにも、ウイスキーと炭酸水を買えば、1杯あたりの単価は缶ビールより安くなると。

たしかにそういった事情はあると思いますが、ただ私は、ハイボール好きとして、ビールよりも安く飲める「代替品」のように紹介されている点は不満です。発泡酒や「ホッピー」は、最初から低価格路線を目指していると思うのですが、ハイボールはれっきとしたカクテルなのです。

それに、居酒屋や安い酒場で2~300円で出てくるハイボールは、私も何度か飲みはしましたが、どれもおいしくはありません。これまで、ハイボールを飲んで不味かったと思った方は、ぜひ一度、きちんとしたバーへ行ってハイボールをオーダーしてみてください。

例えば「サンボア」などはお勧めです。
大阪に7軒(北新地船大工通り、堂島アバンザの裏手、新梅田食道街の2階、お初天神の裏手、ヒルトンプラザの地下、心斎橋八幡筋のハマムラの隣、清水町通りの清水町会館)、京都に3軒(寺町通り、西木屋町通り、祇園の南側)、東京に1軒(銀座5丁目)あります。

暑い日の仕事のあと、帰り道が上記のエリアにある人は、ぜひ一度立ち寄ってハイボールを飲んでみてください。居酒屋の薄くてまずいハイボールに慣れた方には、驚くくらいに旨い一杯であるはずです。
会計は2杯ほど飲んで3000円くらいでしょう。居酒屋で飲むハイボールよりは高いですが、キャバクラへ行っておそろしく不味い水割りを飲まされて万単位のカネを払わされるよりはよほどリーズナブルに、くつろぎの時間を過ごせると思います。

梅雨明けも近いでしょう。暑い日が続きますが、たまに旨いハイボールでも飲みながら、皆さまご自愛ください。
最近、テレビでよく弁護士を見かける気がします。
いえ、報道番組やバラエティ番組のコメンテーターとしてなら、以前からなのですが、最近増えつつあると思うのは、「記者会見に同席する弁護士」です。

少し前の、草なぎクンの復帰会見もそうでしたし、さらに最近なら、民主党の鳩山さんの違法献金疑惑の釈明会見もそうでした。アメリカでは、マイケル・ジャクソンの死亡時に一緒にいたとされる医師が「重要参考人」扱いされ、マスコミに対して「弁護士を通じて」回答したとか。

弁護士が記者会見に立ち会うといえば、従来は、注目される裁判の判決が出た直後に、弁護士会館の一室に記者を集めて、というのが典型的でした。
あれは、出された判決にはどういった意味があるのかといったことを、法律の専門家としての立場から、マスコミや国民向けに説明するという意味がある。

しかし、草なぎクンが「お酒飲んで裸になってすみません」というだけの会見に、弁護士が立ち会う意味はない。

鳩山さんの会見だって、政治資金規正法違反にあたるのかどうかという法的なことを聞かれているのでなく、献金について帳簿上どのように記載されていたのかという「事実」を説明する場なのだから、弁護士の必要はないと思える。

だから、こういう場合の弁護士は、立ち会ってもらうと何となく正々堂々、正しいことしていそうに見えるという「イメージ」的な効果と、
厳しい質問が出て答えに窮したとき、弁護士が「現時点において当該質問にお答えする法的義務はないものと思料します」とか難しいことを言ってケムに巻いてしまう「逃げ」の手段という、そんな役割を担わされているのだと思います。

私には、いずれも弁護士本来の仕事でなく、「便利使い」されているだけのような気がしてなりません。そして幸い私には、記者会見に立ち会ったとか、立ち会うよう依頼されたとかいう経験はありません。

ただ、「立ち会い」にもいろいろありまして、これまで私に相談された中では、「彼女と別れたいんですけど、別れ話をするのに立ち会ってもらえませんか」というものがありました。
これこそまさに、弁護士の仕事ではないので、「それくらいは自分で切り出しなさい」と言ってお断りしました。
東国原さんや橋下さんたち知事が、ついに国政に打って出るかも、という状況になりつつあります。

東国原知事は、地方分権を実現するために国政に行く、という趣旨の発言もされているようです。橋下知事が、国が地方に多額の「負担金」を支払わせていたことに対し「ぼったくりバー」と批判したのも記憶にあたらしい。

自民党がこの2人にアプローチしているのは、選挙での人気取りもあると思いますが、地方分権や地方への財源の委譲がどこまで実現するか、興味はあります。
私は、財政や地方自治のことは全然知らないのですが、思ったことを少し書きます。

大昔、徳川幕府は、いろんな名目で各藩の大名から上納金を取っていたでしょう。明治政府は中央集権国家の実現のため、これをさらに推し進めた。かなり乱暴な理解ですが、こういう制度が現在も、国が地方に支払わせる負担金の形で残っている。
しかしそれは、「統一国家」である以上は仕方がないように思います。

私の身近なところで、司法制度を例に挙げます。
司法権というのは、最高裁判所と、その下にある下級裁判所(高裁、地裁など)に属すると憲法に書いてあるから、いかに地方分権を進めるといっても、裁判に関する権限を地方自治体に与えることはできない(そうでないと都道府県・市町村ごとに裁判制度が違って混乱するでしょう)。

中でも身近なものに、国選弁護人制度がある。刑事事件で起訴された被告人が経済的理由などで弁護士をつけられない場合に、国の費用で弁護士をつける制度です。
近年、この制度が拡張され、逮捕された被疑者(容疑者)になった段階でも広く国選弁護人がつくようになった(逮捕直後に弁護士が必要なのは、多くの冤罪事件を見ても明らかです)。

この国選弁護人に対する報酬は、「国」から弁護士に支払われます(国から被告人や被疑者にあとで請求される建前になっていますが、免除されることも多い)。では国が、このお金を払わないと言ったらどうなるか。

国選弁護人は、弁護士が安い報酬で行うことになっています(あまりに安いので私は現在、国選の仕事を受けていません。前回の話にも絡みますが、司法改革の影響で今後そういう弁護士が増えるかも知れません)。

国が、国選弁護の報酬を廃止するなどと言い出すと、いよいよ国選弁護をやる弁護士がいなくなる。
弁護人がつかないと、刑事裁判ができない(憲法にそう書いてあるため)。犯人なら刑務所に送る、無実なら早期に釈放する、という処理ができなくなるわけです。

すると「容疑者」とされた人は、有罪とも無罪ともつかないまま、警察署の留置場などに留め置かれる。そのうち留置場がパンクして、「容疑者を逮捕できない」状態になる。
そんなことが、皆さんの地元の警察署で起こったらどうなるか。間違いなく、皆さん方の「地方」の治安が極度に悪くなります。

つまり、「地方」の治安は、「国」が出すお金のおかげで維持されているのです。

かように、国のお金が地方に活かされているのと同様に、地方のお金も国のためにある程度の負担があって当然であると思います。

橋下さんは「国は『ぼったくりバー』だ」と言いましたが、私にはどうしてもこの発言は、
これまで店主(国)と客(地方)が持ちつ持たれつの信頼関係でやってきたところに、突然、「明細書を出せ、この会計は何や、こんなもん払わん」と、ガラの悪い客ががなり立てているような印象を受けてしまうのです。

国家の財政により地方が恩恵を受ける一方で、地方が国に対して一切の負担をしないというのなら、地方こそぼったくりではないかと思うのです。
マイケル・ジャクソンが亡くなりました。
(ちなみにマイケル・ジャクソンといえば、お酒好きの私にとっては、同姓同名のウイスキー評論家がいて、そちらを思い浮かべてしまうのですが、こちらのほうは2年前に亡くなっています。それはともかく)

各紙、マイケル・ジャクソンの死亡記事の中で、全盛期の活躍ぶりと、晩年の奇行に触れていましたが、中でも私が引っかかったのは、児童虐待の容疑で刑事裁判を受け、無罪にはなったものの、多額の弁護費用を要し、それが没落のきっかけの一つとされている部分です。

その弁護士はいくら報酬を取ったのだと、そういう下世話な興味もわきますが、自分を護ってもらうために弁護士に依頼して、それで経済的に困窮してしまうとしたら、これこそまさに本末転倒です。

日本ではさすがに、「弁護士に費用を払うために家が傾いた」という話は、聞いたことがないように思います。
お金さえ払えば凄腕の弁護士を雇うことができ、それで無罪判決を勝ち取れるというのは、いかにもアメリカ的です。

私の所属する大阪弁護士会にも、刑事事件の凄腕と呼ばれる弁護士が何人もおりますが、失礼ながらどの弁護士も、さほど儲けているとは思われず、くたびれたスーツを着て、警察署や拘置所へ走り回って容疑者や被告人と面会しています。
高い能力がありながら、安い給与で公設の法律事務所に在籍し、金銭的余裕のない人の刑事弁護に奔走する人もいる。
大阪に限らず、それが日本における刑事弁護の風景であると思います。

近年の司法制度改革で、こういった風景が今後、アメリカ的になることが予想されます。
弁護士の数が増えて、ある程度は競争が生じることになる。経済界は、競争によって弁護士費用が安くなって歓迎するでしょうけど、かわりに、刑事事件のような経済的効率の悪い仕事を受けていると競争に負けるから、扱わなくなる弁護士が増えるのは間違いない。

一方で、一部の金持ちが捕まった場合は、カネの力で刑事弁護に精通した一握りの優秀な弁護士を雇うことができるようになる。

そして遂に始まった裁判員制度のもとでは、アメリカの陪審員裁判と同じように、弁舌やパフォーマンスに長けた弁護士が、素人の裁判員を丸め込んで無罪判決を勝ち取ることがあるかも知れない。

日本の司法改革が、司法の場にもアメリカ流の市場原理主義を取り込むのが目標だというのであれば、マイケル・ジャクソンの事件で垣間見たことが、日本の刑事司法の行き着く姿かも知れません。
当サイトが、資格試験予備校のブログ紹介のコーナーにリンクされました。
「LEC人気講師ブログ」 だそうです(私自身は長年のマイナー講師だと思っているのですが)。

だからということでもないのですが、これまで、司法試験教育のあり方、特に「詰め込み」教育の是非について、まとまらない話を書きまして(4月1日記事 と 4月8日記事)、その続きを書こうと思います。

どんな世界でも、「プロ」になるためには、合計10,000時間の練習をする必要がある、
という話を聞いたことがあります。

この話、誰が言い出したか、またどれだけ実証的根拠に基づくものかは知りませんが、これまで新聞のコラムなどで複数、この話に言及しているのを見ましたし、ネットで検索してみても何万件とヒットするので、きっと広く受け入れられた話なのでしょう。

私自身は、法律のプロたる弁護士になるために、どれくらい「練習」(勉強)したか。
上記4月8日記事にも書きましたが、約2年間、受験勉強をし、1日12時間とかそれ以上に勉強していた日もありましたが、一方でたまには勉強をしない「休日」もあったので、平均すれば1日10時間ということにしておきます。

ですから1年で3,650時間、2年で7,300時間。正確には2年と数か月は勉強していたので、合計しておそらく7,500~8,000時間の勉強時間でしょう。

その後さらに、司法研修所で1年半の司法修習を受ける。
朝9時ころから夕方5時まで、講義を聴いたり、実地研修で法廷に座ったりして、時には半分寝ていることもあったので、これをどの程度「練習」時間と見ていいかは問題ですが、予習・復習の時間も含めると、まあ、1年半で2,000時間(1日あたり3~4時間)くらいはやったことにはなるかと思います。
駆け出しの弁護士になるにも、10,000時間相当の勉強は必要ということです。

もちろん、10,000時間の中身も重要です。
司法試験に限らず各種試験の受験生に多いと思われるのは、講義を聴いているだけで勉強した気になって安心してしまう人です。
しかしいかに講義の上手な名講師でも、聞くだけで試験に受かるという講義はあり得ない。聴いたことを自分で復習して身につけて、試験本番と、その後に実社会に出たときに使いこなせるようにしないといけない。
講義を聴いているだけで終わるのなら、もはや練習時間とは言えない。

法科大学院の講義を、私は聴いたことがないのですが、それがいかにすばらしくても、講義だけでは試験に受からないし、法律をつかいこなすプロにはなれない。

スポーツ選手が正しいフォームの練習を繰り返すがごとく、司法試験の場合は、法的知識を繰り返し読み込んで頭に入れて、いつでもつかいこなせるようにする「練習」が必要です。これすなわち「詰め込み」です。
「詰め込み」に否定的なニュアンスを感じてしまう人でも、「練習」と言えば、誰もその必要性を否定しないでしょう。2つは同じことです。

だから、「司法試験教育に詰め込みはダメ、法科大学院では詰め込みでない教育をする」と、一部の法科大学院関係者が言うのは、そもそも間違っているし、また一部の受験生には「講義を聴いているだけで受かる」式の誤解を生むおそれをも含むと思っています。

また、思いついたころに続きを書きます。
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