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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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少し前に、中央大学の教授殺害事件に絡んで、
人前で容易に涙を流す人が増えたということ、何でもすぐに説明して欲しがる人が増えたことを感想としてお話ししました。

その続きを書こうとしているのですが、以下、非常に底の浅い考察になってしまいましたので、よほどおヒマなときに呼んでくださればと思います。

最近、テレビでも映画でも「泣ける」ことを売りにするものがやたら増えていて、それがそこそこ受け入れられているということは、「泣きたがり」「感動したがり」が増えていることを意味すると思うのです。

いつごろからこうも泣きたがりが増えたかというと、90年代だと思います。
一つの大きなきっかけとなったのは、私の考えでは、ディカプリオの映画「タイタニック」(平成9年(1997年)日本公開)です。この作品、最初は「スペクタクル大作」という宣伝をされていたように思うのですが、観てみたら「けっこう泣ける」ということで評判になり、日本だけでなく世界で空前のヒットとなった。

映画業界の人は、これからは「泣ける」映画や番組が売れると思ったでしょう。それ以降の映画の宣伝では明らかに、いかに「泣ける」かが宣伝文句になりました。(このあたりの話の補足は後述)

もちろんその傾向はテレビにも波及して、泣ける番組がもてはやされるようになった。
ドキュメンタリー番組でも、たとえば取材を受けた人が感極まって泣いたりすると、いい映像が取れたということでオンエアする。取材を受ける側は、泣けばマスコミが味方になって取り上げてくれると思うようになった、というわけです。

何でも説明を求める傾向もそうです。
世の中のあらゆる出来事や事象にはわかりやすい説明があって、誰かがそれを説明してくれないと気がすまない人が多い。

でも、「どうしてこういう事件が起こったのか、その真相と動機を明らかにしてほしい」という人が多い反面、自らその事件の裁判の傍聴に通ったとか、刑法や心理学を勉強したとかいう人はまずいないでしょう。「説明」は、テレビかインターネットか、どこかの偉い人が、聞いて易しくわかるように説明してくれると思っている。

これも、テレビ的なものの影響と、さらには、事件と謎にはすべて明確な回答が存在する、RPGなどのテレビゲームの影響かも知れない。

と、そんなことを最近、中央大の事件とは無関係に、あくまで一般論として感じていたのです。いつか書きたいと思っていたので、思考がまとまらないままに乱雑に書いてしまいました。

終わり。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これ以降は、本論とは関係なく、私個人の趣味で書いていますので、映画好きでない方は読み飛ばしてください。

「タイタニック」以前は、そこまで泣けることを前面に出した宣伝はなかったように思います。

例えばジャッキー・チェンの映画にも、じっくり観てみると意外に泣けるものがあって、「奇蹟 ミラクル」(1989年(平成元年)日本公開)という作品は、ひょんなことからマフィアのボスになってしまった主人公が、ある老婆とその一人娘を幸せにするために奔走するという、今ならまさに泣ける路線で売られそうな作品なのです。
でも当時はまだアクション全盛で、特にチョウ・ユンファの「男たちの挽歌」(昭和62年(1987年)日本公開)の影響もあり、ギャング映画のような売られ方をしていた。

そういう傾向が変わる前兆はありました。
シュワルツェネッガーは80年代、筋肉とアクション一辺倒の映画ばかり作っていたけど、90年代に入って、幼稚園児たちとの触れ合いを描いた「キンダガートン・コップ」(1990(平成2年)日本公開)とか、悪者のターミネーターが正義の味方になってやはり少年との心の交流を描く「ターミネーター2」(1991年(平成3年)日本公開)があって、感動させる路線が現れ始めた。

いま考えると、映画の売られ方の路線の変更時期は、バブル経済が疲弊から崩壊に至る時期とほぼ一致していて、人の「心の疲れ」というものが背景にあったかも知れません。
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通り魔被害のことについて書いている過程で、中央大学の高窪教授が学内で教授が殺害されるという事件が起きました。

何度か当ブログで紹介しましたが、私が筑波在学中だった平成3年にも、イスラム学の五十嵐一・助教授が、大学の建物の中で殺害された事件があり、そのことを思い出しました(この事件はイスラムの刺客によるものではないかと噂されましたが、時効が成立しています)。

これらはいずれも痛ましい事件であり、亡くなった人とその遺族の方の無念は察するに余りあるところです。ひとまずここでは、失礼ながらそれは差し置かせてもらって、雑感を述べます。

中央大の事件を報じるここ数日の新聞を見ると、「キャンパス内には動揺が広がり、学生はショックを受けている」といったことが書かれています。それはもちろん当然でしょう。

しかし、
「学生からは、何が起こったのか大学からは何も説明がない、との不安の声もあがっている」との部分については、「ん?」という感じを受けます。
テレビニュースなんかを見てると、確かに、学生がインタビューを受けて、そういったことを「涙声」で答えている映像に接しました。
警察ですら事件の全貌を知りえていないのに、大学から「説明」できるわけがないではないか、という印象を受けたのです。

筑波大の五十嵐助教授の事件があったときも、キャンパス内にはたくさんの報道陣が来て、ニュース映像も流れていましたが、大学側に「説明してくれ」なんていう学生はいなかったはずだし、取材に対して涙声になっている学生の映像には接した記憶がありません。

(もちろん、五十嵐助教授のゼミ生ら、直接に教えを受けていた者は、まさに慟哭といっていいほどの悲しみを受けておりました。私とは学部は違えど同じ大学内ですから、そういう話はいくつも聞いています。ここで言いたいのは、テレビカメラや取材陣の前で涙を流す学生はいなかったということです)

筑波大の事件から今回の中央大の事件まで、18年間の歳月が流れています。
2つの事件に対する学生の反応と、マスコミの報じ方を見ていて思ったのは、最近、
何でもすぐに「説明」してもらわないと気が済まない(それが説明のしようのないことであっても)人が多くなった、そして、
何でもやたら涙を流す人が多くなった、ということです。

中央大の事件に接して涙を流している学生の皆さんを揶揄または批判するつもりではありません。両事件の関係者で気を悪くした人がおられたらこの稿は削除します。私の真意は、そういう側面を切り取って報道したがるマスコミ、特にテレビの風潮を論じようとしています。

そしてもう少しだけその話を続けようとしているのですが、次回に続きます。
前回の続き。

神戸地裁で起きた弁護士刺傷事件は、怨恨でなく通り魔的なもののようでした。
このような被害に遭わないための方法は次回に、と前回書いたのですが、実は、大した理論は持っていません。弁護士といっても、どうしたら事件を未然に防げるかということについては、基本的には素人なのです。
ですからこのあとの話は、弁護士としてというより、私個人の考えとして書きます。

被害に遭わない方法、それは、「自分を強そうに見せておく」ということです。
神戸地裁の事件でも、捕まった容疑者は、「弁護士なら誰でもよかった」と言っているようですが、実際の被害者は70歳程度と比較的高齢です。つまり、歳がいって容易に襲撃できそうな人を「狙って」やったはずです。

この事件に限らず、通り魔事件で捕まった人はよく「誰でもよかった」と供述しますが、それは間違いなくウソで、彼らは皆、狙ってやってます。
本当に誰でもよいなら、「どうせやるなら強そうなヤツを狙いました」という容疑者もいそうなのに、そんな話は聞いたことないし、実際、K-1のジェロム・レ・バンナみたいな人が通り魔被害に遭ったという話も聞かない。

若者による集団強盗事件(「おやじ狩り」とも称されますが)などでも同じです。
街なかにはターゲットになる人がたくさんいるから、彼らがあえて強そうな人を選ぶはずがない。おとなしそうな、ひ弱そうな人を探してやっている。

ということで、強そうに見えるということは、それだけでかなりの被害を防げる(はず)。
といっても、ジェロム・レ・バンナみたいに筋骨隆々の体になるとか、そんなことはしなくていい。

街を歩くときに「堂々としている」だけでよいのです。
背筋を伸ばす、胸を張る、目はまっすぐ正面を見据えて、周囲にも目を配る。ずるずる足を引きずらずに、くるぶしが風を巻き起こすかのようにスタスタと歩く。
それだけで周囲の人と、わずかながら違って見えるはずです。

この、「わずかながら」違うということが重要なのです。
通り魔犯人も、集団強盗グループも、彼らは食うに困ってやっているわけではない。
だから、犯人が一線を越えるには最後までためらいがある。

そういうときに、目の前にいる人間が、堂々とした顔つきと姿勢で佇んでいれば、「あっ、この人はやめとこう」ということになるように思う。

私も「堂々と歩く」ということを心がけていて、今までのところは通り魔に遭わずに済んでいます。
その因果関係はまだきちんと実証できていませんが、少なくとも、姿勢よく歩くと気持ちがよいので、よければ皆さんも実践していただき、その実証にご協力ください。
大阪やその周辺でタクシー強盗が相次いでいます。なぜ大阪ばかり、と思っていたら、タクシーの構造に一つの原因があるようです(産経8日夕刊など)。

たしかに、東京地裁などに行った際に東京でタクシーに乗ると、けっこう驚きます。
運転席と後部座席が透明のアクリル板で仕切られている。ついでに後部座席には小さいモニターがあって、テレビ番組とか、広告映像を写している。何だか、アメリカ映画に出てきそうな近未来のタクシーって感じだなと思ったことがあります。

大阪のタクシーには、仕切り板のないものが多い。モニターみたいな気の利いたものはない代わり、運転手がやたら話しかけてくる。
タクシー会社によっては、ポケットティッシュとか、今の時期なら新年用の名刺サイズのカレンダーとかをくれたりする。アメとかチョコレートをくれることもある。

こういうのは、たまにうっとうしいこともありますが、大阪の人間のサービス精神の表れとして、基本的には微笑ましいものと受け取っています。
(ただしアメは要らん。特に、これから食事というときとか、のどが渇いていて一口目にビールが飲みたいというときに、口にアメを入れたくない。タクシー関係者は考慮されたい。って見てないでしょうけど)

そして、運転手と利用客の、この距離の近さが、後部座席から運転手を狙うという強盗の手口が多発する原因となっているわけです。
大阪のタクシー会社も後部座席との間に仕切り板を設置する検討を始めているらしい。私としては非常に残念な気持ちです。

うちではちょうどこの元旦に子供が産まれたために、正月3が日は自宅と産科病院を行き来することに明け暮れましたが、タクシーをひろって病院名を告げると、「奥さんがおめでたですか?」と運転手が声をかけてくるわけです(産科専門の病院なので)。
で、「ええ、元旦に産まれまして」「いや~そらめでたいことですなあ~!」なんていう会話になって、それがまた嬉しかったりしたのです。

そこにアクリル板が入ることで、雰囲気はちょっと違ったものになるでしょう。たとえは非常に悪いですが、ちょうど、警察署や拘置所で捕まっている人と面会しているような気分になる。

タクシー強盗の被害防止という観点からはやむを得ないと思うのですが、ちょっと残念な、そして不景気か何か知りませんけど強盗などという犯罪に大いに憎しみを感じる年明けではあります。


あけましておめでとうございます。

いきなり私ごとながら、元旦の日に初の子供が産まれました。男の子でした。

今年の社会経済情勢がどうなるかはわかりませんが、うちの子供はそういうことを預かり知らないといった風情で、寝たり泣いたりしています。
この先どんな世の中になったとしても、この子供はそんなことを気にせず健やかに育っていけるよう、私自身がこれからの人生を賭けてでもがんばっていきたいと思います。

ちょうど年末にここで書いたように、この世の中を変えるとか大それたことはできなくても、私と接する周囲の人々の人生に何か少しでもプラスになることをできればと思います。
私の依頼者とその他知人、一昨年に結婚した私の妻と、それに加えて今年からは私の子供が加わるわけで、いっそう公私ともに精進していきたいと誓う年明けです。

さらに私ごとが続きますが、
知人あての年賀状用にと思って、私と妻のイラストを描いてあったのですが(私がウインドウズの「ペイント」でマウスを使って描きました)、せっかくだからここにも貼ってみます。もう子供は出てきているのですが、年賀状がわりということでご笑覧ください。

事務所のブログなので子供の話はこの程度にして、また今年も、変わらず法律・裁判ネタを書いていきたいと思います。
今年もよろしくお願いします。
平成20年も終わろうとしています。皆さんにとってはどのような1年だったでしょうか。

去年のブログ記事を見返してみますと、世の中全体、あまりいい1年ではなかったかも知れないと書きました。去年の記事(旧ブログ)
この年末の社会情勢は、去年に比べるともっと悪くなったような気がします。

金融不安に、それに端を発する不況、解雇に雇い止め(ちなみに、「解雇」というのは勤務期間継続中にクビにすることを言い、「雇い止め」とは、契約社員など期間限定で勤務している人について、期間終了後の更新をしないことを言います。この際どっちでもいいでしょうけど)等々、経済は年末になってますます落ち込んでいる。

年の瀬の犯罪もいつにも増して物騒に感じます。
大阪ではタクシー強盗殺人が2件続いて、昨日は東京で20代の男性が「派遣切り」にあったなどと言って包丁を振り回したとか(本件は「雇い止め」に該当するケースのようです。この際どっちでもいいのですが)。

しかし、こんな状況だからこそ、昨年末に書いたのと同じ趣旨のことを、いっそう強く言いたいと思います。
すなわち、こんな状況で国はいったい何をしているんだ、ではなく、
こんな状況で自分は何ができるのか、ということを自分自身に問うていきましょう。

自分自身が世の中を変えるとか、そういう大それたことではない。
まずは自分の仕事を一生懸命にこなす、それによって自分の周囲の人々を少しでも良くしてあげることから始めようということです。

「今の不況でクビになって、仕事を取り上げられた人はどうなるんだ」
と感じる方もおられるかも知れませんが、仕事というのは、会社や職業といったものに限りません。
一時的に仕事を失った人は、仕事を選り好みせずに探す、それでも仕事が見つからない人は、実家にでも帰って老いた親に孝行する、それもその人の「仕事」のうちだと思います。

(自分の話をするのも何ですけど、私だって今はこうしてのうのうとブログを書いていますが、大学を出たころはバブル崩壊後の就職不況で、20代の頃は勤務先をクビに近い形で退職したこともありました。それで弁護士にでもなろうと思って、1、2年ほどは雌伏の時を過ごすつもりで家にこもって勉強しました)

今年の私自身が、どこまで周囲の人のために仕事することができたか、それなりに頑張ったつもりではありますが、まだまだ課題も残しています。
来年も、大それたことは考えていませんが、景気がどうあれ、自身に与えられた職務に邁進していきたいと思っています。

ひとまずは皆さん、よいお年を。
昨日で役所も御用納め、裁判所の動きも新年までないでしょうから、当分雑談を続けます。

さて世の中、すべての事柄においてますます「スピード」が求められるようになっています。
旧ブログのころから将棋の話をよく例えにしますが、将棋の世界でも、対戦においては少ない時間と手数で勝つのが強さの証と見られることが多い。

ところが、そうではないという人もいる。淡路仁茂という棋士は、長時間ねばりにねばって最後に勝つのが美しいのだと考えておられて、誰が言ったかその棋風は「長手数の美学」と呼ばれている。

私たちの扱う裁判や紛争といったものも、一般的に言えばスピード解決するのが望ましいのですが、中には、時間をかけてこそ解決できることもあります。

裁判員制度を控えて、刑事裁判は「早く易しく」処理するのが良いとされつつありますが、拙速な審理がときに問題を残すことがあると、少し前の広島女児殺害事件の話で書いたとおりです。

タレントの羽賀研二の詐欺・恐喝事件の裁判では、大阪地裁は無罪判決を下しました。
週刊誌の報じるところによると、あれは長期裁判の末に羽賀研二に有利な発言をする証人を弁護人が見つけ出し、法廷で証言させたのが一つの決め手になったとか。
これも、もし長期裁判をやっていなかったら、大阪地裁は重要な証言を落としたまま結論を出していたことになります。

民事事件でも同じことがいえます。
私の事務所でも、トラブル発生当初は感情的な憤りもあって「すぐに相手を訴えてほしい」と興奮気味の依頼者がやってくることもある。でも訴えたところで、民事裁判は判決が出るまで早くて数か月、長くなれば2、3年やそれ以上の期間がかかる。

さすがに2、3年も同じテンションで憤り続けることのできる人はいない(少なくとも私は見たことがない)ので、裁判をやっているうちに紛争当事者がお互いに疲れてくる。
そうすると、「徹底的に争う」という最初の意気込みも収まって、ある程度のところで「和解」が成立する。そしてそれが結局、長期的に見れば妥当な解決になっていることが多い。

裁判所での民事裁判の処理も、もたもたしているように見えて、あれはあれで当事者に冷静になる機会を与えるきっかけになっているわけです。

そういうことで、依頼を受けた事件の処理にあたっては、一般的にはスピードを大切にしつつも、人の紛争はスピードだけで解決しないこともあることを念頭に、冷静な処理を心がけていきたいと思っています。
年末の慌しさに、つい当ブログも1週間ほど空いてしまいました。
当事務所は、本日26日が年内の仕事納めです。

さて今回はその慌しさを言い訳に、雑談でお茶を濁そうとしているのですが、
昨日、クリスマスの夕暮れ時、大阪地裁への行き帰りの途上で、中之島の大阪市役所の前を通りました。

数年ほど前から、市役所周辺はこの時期、電飾で彩られるようになりました。
最初のころは、仕事帰りにブラリと立ち寄る風情で良かったのですが、昨日などは人が一杯で、警備員が「立ち止まらないでください」などとメガホンで叫んでおり、ちょっと興ざめでした。

電飾といえば、神戸の「ルミナリエ」が最も有名です。これが発端となって、全国に電飾イベントが拡がったと思うのですが、東京には「ミレナリオ」というイベントがあるらしい。これなどは名前からして、「ルミナリエのパクリやん」と思うのですが、
「え? パクリじゃないよ。東京独自のイベントだよ。名前が似てる? 偶然じゃん?」
と東京の人が言ってそうな気がします。

(ごく最近知ったのですが、「ルミナリエ」と「ミレナリオ」は、デザイナーが同じ人のようで、似ているのは言わば当然なのですけど)

ともかく、全国各地でやたらと電飾イベントが行なわれていて、ちょっと食傷気味なのですが、私がいま注目しているのは「ジャンナリエ」です。

大阪・新世界のジャンジャン横丁で、串カツ屋や立ち飲み屋や将棋道場が立ち並ぶ、その商店街のアーケードに電飾を始めたようです。
「ジャンナリエ」という、パクリ丸出しのネーミングが、潔くて良いと思います。

私はまだ実際には見にいっていないのですが、ジャンジャン横丁ではノレンの奥でオッサンが酔っ払いながら、
「パクリ? 不景気? そんなん関係あるかい」
と笑い飛ばして電飾を見上げているのでしょう。

その良い意味での臆面なさと元気さに、昨今の不景気を打開する秘訣が隠されている気がしなくもない、といえば言いすぎでしょうね。

年末もまだまだブログを更新するつもりですので、仕事納めのあとはご自宅のパソコンからアクセスしてみてください。
お知らせ
一時的に戻ってきました。 左上に「裏入口」という小窓が出てくるかも知れませんが、当ブログとは関係ありません。おそらくアダルトサイトへの入口なので、クリックしないでください。
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