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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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先週のニュースですが、仙台地裁で裁判員が被告人に「むかつく」と発言したとか。
裁判員制度の問題点が改めて浮き彫りになった感がありますが、これについて触れます。

報道によると、裁判の内容は、39歳の男性被告人が起こした強姦致傷罪の事件で、ある男性裁判員は、被告人の受け答えに反省の気持ちが見られないからということで声を荒げたと。

前回、弁護人は何を言っても良いわけではなく、証拠にないことを弁論すると「異議」が出される、という話をしましたので、その延長で検討します。

「異議あり」などというセリフが出てくる場面としては、証人尋問の場がドラマなどでもポピュラーかと思います。
検察官が、誘導尋問や誤導尋問など(その意味は省略)、不適切な質問をしたときに、弁護人が「異議あり」と立ち上がって、その質問をやめさせる(もちろん、弁護人の質問に検察官が異議を出すこともある)。

では、弁護人が、「敵」である検察官ではなく、裁く立場である裁判官の質問に異議を出すことができるかというと、これはできます。今、根拠条文を確認せずに書いていますが、実際の法廷でも、武闘派の弁護士などは裁判官にも喰ってかかります。

冒頭の事件では、「むかつく」と発言した裁判員を、裁判長が制止し、その裁判員もそれに従ったそうですが、仮に裁判長が制止しなかったとか、裁判員が制止に従わなかったとかいう場合、弁護人はこの裁判員に異議を出せるのか。

これは、可能なはずです。これも根拠条文を確認していませんが、裁判員は裁判官と同じ立場で審理に臨む建前である以上、可能と思われます(間違ってたらご教示ください)。

そして「むかつく」発言など、適切か不適切かといったこと以前に、そもそも「質問」ですらない。

しかし弁護人としては、ここで異議を出すのは難しいでしょう。
それは前回同様の理由で、裁判員がプロでないからです。プロの裁判官なら、武闘派の弁護士相手でも冷静に判決を書けますが、裁判員なら、「私たちに喰ってかかる、けしからん弁護士だ」ということで、刑罰が重い方向に振れることは充分考えられる。

かくて、どんな不適切な質問や発言にも、被告人や弁護人が異議を出せないまま、裁判員が被告人をなじり続ける状況が生じうる、それが裁判員制度下の刑事裁判であることが明らかにされたわけです。

この話、次回に続く。
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地味な記事ながら、弁護士として興味深かった事件です。
神戸地裁での裁判員裁判で、弁護人の「最終弁論」に検察官が「異議」を出したらしい。

強盗傷害罪の事件で、弁護人は「被告人の供述調書は、警察官の作ったストーリーに沿ったものだ」という趣旨の弁論をしたところ、検察官が「異議あり」と言った。裁判官はその異議を認めて、弁護人は弁論のその部分を撤回することになったそうです。

刑事裁判の最後には、検察官が「被告人には懲役何年が相当だ」という「論告求刑」を行い、そのあとに弁護人が「無罪だ」とか「執行猶予を」などといった「最終弁論」を行います。
このとき弁護人は、被告人をかばうためなら何を言っても良いというわけではなく、きちんと「証拠」を根拠にして言わないといけません。

上記の弁護人は要するに、「やったこと自体は認めるけど、供述調書は警察官の言うままに被告人が誘導されたため、被告人が実際以上に悪人に書かれている」ということを言いたかったのです。
しかしそれなら、裁判の最初の段階で、「調書には信用性がない」と主張した上で、調書を作った警察官を証人に呼んできて、その作成経過を証言させるなどする必要がある。

それをせずに、最後になって唐突に、証拠のどこにも載っていない、法廷で誰も証言していないようなことを言いだすのは、検察に対する不意打ちであって認められないのです。

だから私自身も、審理が1日で終結する事件では、最終弁論の準備には慎重になります。
事前に最終弁論の内容を書いた書面を作っておくのですが、法廷で被告人が、打合せのときとは異なる弁解をした(こちらが予定していた証言をしなかった)ため、検察官が論告求刑を読み上げている間に、手元で書面をこっそり訂正することもあります。

書類はもちろんパソコンで打ち込んでいるので、ボールペンで訂正すると、「うまく証言が引き出せなかった」ということが検察官と裁判官にばれてしまうのですが、それでも、証拠にないことを弁論して「異議あり」と言われるよりはマシです。

もっとも、実際には、弁護人が証拠から少々はずれたことを言っても、検察官があえて異議を出すことはあまりないように思えます。弁護人がテキトーな弁論を行っても、プロの裁判官がそれに引きずられて判決を誤ることはありえないですから。
(ちなみに私も、最終弁論で異議を出されたことはありませんが、それは私がちゃんとした弁論をしているためなのか、検察官が見逃してくれているためなのかは知りません)

今回、検察官が異議を出したのは、やはりこれが裁判員裁判だからでしょう。裁判員はプロじゃないから、弁護人の言ったことに引きずられることを懸念したわけです。

従来のプロ同士の刑事裁判なら、弁護人が言いたいことを言ってもある程度は許される部分はあったように思いますが、今後は「セオリー通りにやらないと異議が出される」ということで、良い意味での緊張感が法廷にもたらされるのではないかと思います。
司法修習生が政策秘書に就職する例が増えてきました。これまでは少なかった理由として、「温泉旅行の接待役」などやりたくないからだろう、ということを書きました。

ただ、もっと根本的な理由としては、政治家と弁護士(同じ「法曹」である検察官や裁判官も含めて)とでは、思考方法とか価値観とかに、正反対といっていいほどの大きな違いがあるということが挙げられます。

ここでも何度か書きましたが、民主主義の下における政治とは、基本的に多数決の世界です。自分の信じる政策や法案を実現させたいと思ったら、自分たちの政党で国会での議席を多く取ればよい。

民主党はその多数を取るために、こないだの選挙で、大衆受けしそうな女性候補を多数立候補させましたし、自民党もなりふり構わぬ選挙戦を展開しました。
多数派となった民主党は、いまや「事業仕分け」で国家予算を左右できるようになり、一方の自民党は、谷垣総裁が自転車で転ぶほどの凋落ぶりです。

これがまさに政治の世界なのですが、私たち弁護士は、そういった多数決の世界をいくぶん冷ややかに見ています。
弁護士にとって、問題を解決するために頼むべきものは法律であり、それを解釈する論理です。「数」ではなくて「理」で動くのが司法の世界です。

憲法の教科書を見ると、三権分立のうち国会と内閣は多数決の世界だが、裁判所(司法権)だけは「理」によって動く、だから多数決で排除されるような少数者や弱者でも、司法の場では救済を求めることができる、といったようなことが書かれています。

弁護士はみなそういう勉強をしてきているので、「理」で動くことに誇りを持っており、多数決の世界とは距離を置くことにアイデンティティーを感じています。

(たしかに政治家になる弁護士は時々いますが、それは、よほど仕事熱心であるため「法律そのものを変えないといけない」と思い至った人であるか、またはよほど変な人であるかのいずれかです)

だから、司法修習あがりの、「数よりも理」、「少数者の保護」といった理念に燃えているであろう人たちが、政治家の秘書としてやっていけるのか、特に、自分の主義信条とその政治家の政治思想が異なるとき、自分にとって不本意な政治活動をやらければならないことに我慢ができるのか、それを大変心配しています。

聡明な司法修習生たちなら、そういった理念的対立が生じるであろうことはもちろん予測できているはずで、それでもなお今回、18人の司法修習生たちが政策秘書になろうとしたわけです。ひるがってみて、弁護士の就職難はそれほどひどくなっているのか、ということに驚かざるをえません。
司法修習生が国会議員の「政策秘書」になるケースが増えてきたと、ネットニュース(読売オンライン)で見ました。

司法修習生は、司法試験に受かって、弁護士や裁判官・検察官になるために研修中の人を言います。私ももちろん、一時期その身分にありました(平成11年から1年半)。

政策秘書になるには試験があるのですが、司法試験に受かっていると免除されるという話は、私も司法修習生時代から知っていました。もっとも、私は政策秘書になろうなどとは全く考えていなかったです。

議員秘書がどういう仕事をしているのかは、きちんと調べていないので知りません。
でも、およそどんな仕事にも、「事務」の側面を扱う部署が必要です。

弁護士なら、訴状を書くのは自分でやるとしても、それを裁判所に提出するためには、必要な金額の印紙を貼って、必要な部数だけコピーし、所定の窓口に持っていくなど(他にもいろいろあります)、多くの事務が発生します。
国会議員だって、法案や政策を考えるだけではなくて、それを実現させるためには、国会や政党などとの間で、諸々の手続きが発生するのでしょう。

ただそれだけでなく、議員秘書というと、私の勝手なイメージですが、たとえば議員が地元の支持者を集めて温泉旅行などに行く際、宿の手配をしたり、宴会場でお酒を注ぎまわったりしている、そんな仕事がむしろ重要であるような気がします。

そういう「ドブ板」的なことではなく、本来の仕事である政策形成に関する事務に集中するようにと、従来の秘書制度とは別に作られたのがこの政策秘書という制度であったと記憶しています。

しかし、議員や有権者にとっては同じ「秘書」だし、やってる仕事はそう変わらないだろうな、とも想像していました。
だから、「何でわざわざ司法試験に受かってまで、温泉旅行の接待役を…」と、私は思っていましたし、私以外にも、政策秘書になろうという司法修習生はほとんどいないだろうと思っていました。

現に、冒頭の記事によると、政策秘書制度ができたのが平成6年で、その後、前回の選挙までに政策秘書になったのは9人だけとのことですので、年に1人もいない計算になります。
それが、今回の衆議院選挙後、政策秘書に採用されたのは29人、そのうち何と18人が司法修習生だったそうです。

近年、司法試験合格者が増加して弁護士の人員に余剰が出始めたのと、民主党の新人議員が大量に出て専門知識を持つ秘書が足りなくなったのと、その2つが理由であるのは間違いないと思います。

この話、次回にもう少しだけ続く。
いつものことながら、更新頻度にムラがあってすみません。昨日に引き続き更新します。

市橋容疑者が逮捕されました。わざわざ変な顔に整形して、それで逮捕されては本人もたまったものではないだろうと思いますが、これも自業自得です。

逮捕当日、市橋が大阪から千葉へ新幹線で移送されたときの報道の加熱ぶりは大変なものでしたが、今度は、警察から検察に「送検」されるとき、TBSの社員が「公務執行妨害罪」で現行犯逮捕されたとのニュースがありました。
市橋容疑者の様子を撮影しようとして、行き過ぎがあったようです。

公務執行妨害罪とは、暴行または脅迫によって、公務を妨害することを言います。
暴行とは、「人の身体に対する有形力の行使」(他人に物理的な力を加えること)を意味します。

本件のTBSの社員がどのような「暴行」を行ったのか、新聞やネットのニュースなどを見ると報道内容にバラつきがありますが、1.パトカーの前に立ちふさがった、2.警官の制止を振り切った、3.警官を突き飛ばした、などと書かれています。
3まで行けば、明らかに暴行です。でも2は微妙で、1だけならさらに微妙です。

もっとも、公務執行妨害罪にいう暴行は、他人に直接危害を加える「暴行罪」の暴行よりは広く解釈されていて、警察や裁判所の解釈でいけば、1や2だけでも充分暴行にあたるとされるように思われます。

私がこれまでに担当した中では、少年事件ですが、少年が警官の白バイの前に「通せんぼ」をして立ちふさがって、公務執行妨害罪で逮捕され、少年審判を受けたと言うケースがありました。

行為自体は、ワルぶって警察につまらぬ虚勢を張った、非難されて当然のケースなのですが、それが公務執行妨害と言えるのか。この少年が警官に「暴行」をふるったといえるのか。
白バイは徐行していて、少年の手前20メートルほどで余裕を持って止まっているのです。

私は、この少年が警官に有形力を行使したとは到底解し得ない、という主張を展開したのですが、裁判所の認めるところとはならず、成人で言えば有罪に相当する処分が下されました。

冒頭の事件に戻ると、TBS社員のしたことは、危険な行為でもあり、容疑者の移送を妨げるものです。のりピーの事件などでも見られた最近の報道の加熱ぶりからすると、そうした行為は規制されても仕方ないようにも思える。

しかし公務執行妨害罪という犯罪は、あくまで暴行・脅迫という、かなり強度の害悪を用いるがゆえに処罰されるのだという前提は、もっと重視されるべきです。
そうでないと、私たち国民誰もが、警察のジャマをしたら逮捕、とにかく警察の気に入らない行動をとったら逮捕、といった運用をされてしまう恐れがあるのです。
12日、天皇陛下即位20年の式典が行われました。

時代が昭和から平成に変わったとき、私は高校生でした。高校の拳法部の連中と一緒に、谷町にあった道場で稽古している最中、師範が「あたらしい元号が決まったぞ」とやってきて、ホワイトボードに「平成」と書いたのを思い出します。

私ごとはともかく、
この式典にあわせて、新聞各紙はそれぞれ、特集を組んでいて、例えばここ数日の日経などは、今上天皇が日本の象徴たるべくどのように心を砕いてきたか、という記事を連載していました。

前々回の記事にも書きましたが、日本国憲法において天皇陛下は日本国の象徴とされています(第1条)。
では象徴とはどういう意味なのか、というと、どの憲法の教科書を見ても、「白百合は純潔の象徴、鳩は平和の象徴」というのと同じだ、という、あまり論理的でない説明しか書かれていません。

つまり、「象徴」には法的、政治的意味はありません。むしろ、現行憲法下においては、法的、政治的な存在であってはならないとされています。
憲法という、国で最も重要な法律の、しかも一番最初に出てくるのに、法的意味を持たない。ならば象徴天皇とは何なのだ、という疑問も生じ得ます。

話は変わってまた私ごとに戻りますが、最近、今さらながら吉川英治の「新・平家物語」を読んでいます。後白河法皇が、源氏と平家を秤にかけてすさまじい政治力を発揮するのですが、この後白河法皇は、いまの天皇陛下の先祖にあたるわけです。そう思うと、大昔の話ながら、この物語を非常に身近なものと感じることができます。

後白河法皇だけでなく、日本人なら誰でも知っている「大化の改新」の中大兄皇子(後の天智天皇)とか、司馬遼太郎の幕末ものによく出てくる孝明天皇とか、これらすべて、今上天皇のお父さんのおじいさんの…とたどっていくと、行き着くわけです。

こんな国は他にはないでしょう。
たとえばアメリカは200何十年か前に原住民を侵略して作った国だし、中華人民共和国は60年前に共産党がドサクサにまぎれて作った国です。イギリスやフランスは歴史は古いけど、革命があるたびに昔の王様をギロチンで処刑しているから、国家としての連続性はない。
日本だけが、有史以来、国家の中心となってきた人の直系の子孫が、いま現在でも国の中心(皇居)にいるのです。

私なりの象徴天皇の理解としては、法律家とかマスコミが難しく考えるような性質のものでなく、ただ単に「そういう存在がいるだけですごい」ものである、と思っています。
今上陛下は象徴としてのあり方に心を砕いておられるけども、象徴天皇はただ存在するだけで充分に意味があるというのが、私の理解です。
今週は何も書かないままに週末を迎えてしまいました。
業務の多忙のほか、今週はあまり、ネタにしたいニュースに出会わなかったためですが、あえて何か拾うとすると、詐欺罪で逮捕中(埼玉地裁)の女性の周辺で男性が次々に不審な死を遂げていた、というのが注目されます。

この人の、どこそこのホテルでランチしたとか、車をベンツに乗り換えたとかいう、一人よがりの勘違いセレブ風なブログを読んでみたくて、いくつかのキーワードで検索してみましたが(業務多忙とか言いつつ結構ヒマなことをしてます)、すでに削除されているようです。

当ブログでは、少しでも読者の方に有用な情報を提供すべく、今週、依頼者と雑談している際に聞かれたこんなご質問を紹介します。

イギリス人のリンゼイさんが殺害された事件で、指名手配されている市橋容疑者が名古屋で整形手術をしたとの報道がありました。たしか昨日、写真が新聞・テレビで公開されましたが、整形の報道があってから2、3日の間は、写真が公開されていませんでした。
その期間中に聞かれたのですが、「どうしてあの事件の整形後の写真は報道されないのですか?」ということでした。

この答えは簡単で、医師としては守秘義務があるから、整形写真をすぐに公開するわけにはいかない。だから、警察がその医院から写真の「領置」(りょうち。証拠物を任意に提出してもらうこと)を受け、警察がその写真を指名手配に乗せるという手続きに時間を要したのでしょう。

このときもし、医師側が任意の提出を拒否すると、裁判所から「差押」の令状が出て、警察官がその写真を強制的にでも押収できますが、たぶんそこまで行かなかったと想像しています。

本来なら、医師が自分のところで整形手術をした人の写真を公開するなど、甚だしいプライバシー侵害ですが、この場合は犯罪捜査のためということで、医師に違法性は認められないでしょう(仮に違法として、市橋容疑者は訴えようにも訴えられない)。

ついでに冒頭の勘違いセレブ女性の話に戻りますが、この人は結婚詐欺の容疑で逮捕されたとはいえ、男性を殺したことについては証拠が固まっていなくて、逮捕状が出ていない。

週刊誌には顔も名前も出ているのに、新聞では未だに名前が伏せられているのは、以前にも書きましたがあまり早くに容疑者扱いしてしまうと名誉毀損の問題になるからです。こちら

以上、小ネタ風を2題ということで今週はこのへんで。
少し前に新聞に出ていて、大した話題にならずに終わった事件について触れます。
岡田外相が、国会開会の際の天皇陛下の「お言葉」について、「もっと心のこもったものにしてほしい」と、宮内庁の人たちに注文をつけたとか。

お言葉とは、国会の開会にあたって、天皇陛下が「国民の負託に答えるよう期待します」などと(本当はもう少し長いけど)述べるものです。

弁護士のクセとして、何でも「法的根拠」を考えてしまうのですが、このお言葉には、法的根拠はありません。
ご存じのとおり天皇は日本国の象徴であり(憲法第1条)、内閣の助言と承認に基づいて一定の「国事行為」(同7条)を行う存在とされていますが、国事行為の中に「お言葉」は書かれておりません。

これはおそらく「慣習」によるものです。
明治時代の天皇は「主権者」であり、明治憲法では、国会の作った法律は天皇の裁可(OKサイン)がないと成立しなかった。そのため天皇が国会に出て「ひとつがんばって、朕の裁可に足る法律を作りなさい」とお言葉を賜るのは、おそらく当然のことと考えられたのでしょう。それが今でも残っている。

さて、そのお言葉に「心を込めろ」というのが岡田外相の言い分ですが、果たしてそれが良いことなのか。
その天皇陛下のお言葉が問題とされたケースとして、こういったものがあります。

戦後、日本が占領状態を脱し独立を回復する法的根拠となったのは「サンフランシスコ講和条約」(1951年、昭和26年)ですが、これはアメリカや西ヨーロッパの「西側諸国」とのみ締結した「単独講和」でした。
当時の社会党など左翼の人たちは、ソ連や東ヨーロッパや中国など「東側諸国」も含めて「全面講和」をすべきだと主張し、世論も割れていた。

吉田内閣は現実路線をとって西側諸国との単独講和を結びました(結果的に、西側と仲良くしておくことによって、日本が経済的に発展できたのです)。
その直後の国会で、昭和天皇が「講和条約の成立を嬉しく思います」という趣旨のお言葉を述べられました。

これは単に、日本の主権回復を祝う意味であったと思われますが、ひねくれた根性の人たちは「全面講和でなく単独講和を祝っている、つまり天皇は吉田内閣を支持し、社会党の考え方を否定している」と受け取った。
日本国全体の象徴である天皇が、時の内閣を支持するとか、反対政党を支持しないとか、そういう言動をしてはならんじゃないか、と問題視したわけです。

かように「講和を祝う」と言っただけで一部勢力の人が騒ぎ立てるのですから、天皇陛下のお言葉がどうしても平板になるのはやむをえないのです。

岡田外相はまさか「政権交代を嬉しく思う」などと言わせようとしたわけではないと思いますが、天皇陛下に何を求めたかったのか、意味のよくわからない進言でした。
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