忍者ブログ
大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
[16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21]  [22]  [23]  [24]  [25]  [26
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

のりピー、夫の高相、押尾学と、一連の薬物事件の審理が終了しました。
報道で知る限りでは、個人的には高相の裁判が興味深かったです。
法廷にペットボトル入りのお茶を持ち込んで、裁判官からそれをしまうように注意されたとか。

法廷内では「飲食禁止」とされています。
カバンにペットボトルをしのばせておいて、裁判前にこっそり飲むという程度であれば、私もやったことがありますし、それで注意されたことはないですが、大っぴらにペットボトル片手に法廷に立てば注意されるでしょう。

法廷内でなぜ飲食禁止かというと、それは当然であり、常識です。人を裁くという厳粛な場においてふさわしい行動ではないということに、多くの説明を要しないと思います。
高相の弁護人は、それをきちんと指導しなかったのか、とも思いますが、おそらく弁護人も、高相がそんな行動をとるなど予測すらしていなかったのでしょう。

と、そこまでは常識の話として、私もいちおう弁護士なので、法廷内での飲食禁止ということについて、法的に考えてみたいと思います。

法的に言って、「禁止」ということの意味は、「国家機関が国民に対し、ある行動をしないように命じること」を意味します。
私たち国民の活動は自由であるということは憲法でも保障されており、したがって、裁判所という国家機関が私たちに法廷内での飲食を禁じるためには、何らかの法的根拠が必要なはずです。

しかし、刑事訴訟法には、「飲食禁止」を定めた条文はありません。その他関連の法令をざっと見てみましたが、これを明確に定めた法令はないようです(見落としがあるかも知れないので、そういう条文を見つけた方がおられたら教えてください)。

根拠となるべき条文を挙げるとすれば、裁判所の訴訟指揮権(刑事訴訟法294条など)でしょう。
法廷の場における訴訟進行は裁判官に権限がある、という趣旨の簡単な条文ですが、そこには、訴訟を取り仕切るだけでなく、不規則な発言をする人がいたら退廷させるなどして法廷の秩序を維持するという権限も含まれている。

高相に裁判官が「ペットボトルをしまいなさい」と言ったのは、この権限に基づきます。

なお、裁判を傍聴したことがある人なら、法廷の入り口の脇に、注意書きが書かれてあるのを見たのではないかと思います。
そこには、法廷内では静粛にしてくださいとか、許可がない限り撮影や録音はダメとか、危険物などを持ち込むなとか、そういったことが書かれています。
これらも、訴訟指揮権に基づいて、裁判官が当事者や傍聴人に予め命令しているわけです。

大阪地裁の法廷にある注意書きを、改めて確認してみましたところ、危険物やプラカードはダメ、と書いてありましたが、飲食物はダメとは書いていませんでした。
飲食物を大っぴらに持ち込む人など、これまでは常識的に考えられなかったので、あえて書かなかったのでしょう。

高相被告人はそれほど非常識な行動をしたことになります。
そら、のりピーも裁判で「離婚したい」って言いますで、と思った次第です。
PR
そんなに大きなテーマでもないけど、あれこれと考えているうちに色々なケースを書いてしまいました(でもこれらは、私が実際に見聞きした、または人から相談された事例をベースに書いています)。

最後に、ブログ等に写真を掲載することの問題について触れます。
前々回、店や料理など、「物」を撮影し掲載すること自体は、(マナーの点はともかく)法的には問題ないであろう、という話をしました。

では、被写体が店主や店員など、「人」である場合はどうか。
誰しも「肖像権」という言葉が思い浮かぶと思います。しかし肖像権という言葉は、実は六法のどの条文にもない。

これが有名タレントの顔などであれば「パブリシティ権」というものが発生します(詳細は省略)。また警察など国家機関が私たちの姿をみだりに撮影することは憲法違反とされています(最高裁の判例)。

しかしそれ以外に、私たち個人が、お店の人の肖像が入った写真を断りなくブログに載せることで、直ちに法的な責任が生じるわけではないでしょう。
店員や店主は、店にきたお客さんに顔をさらして行動しているから、それをブログ読者の目に触れさせても違法とまで言えない。
もちろん、インターネット上に公開されれば、見る人の数は広がりますから、掲載されるのを嫌がる人もいるかも知れないですが、それをやめさせる明確な法的根拠はない。

もっとも、特定の人を中傷したり辱めたりするような形で、ことさら執拗にまたは大きく写真を掲載するようなことをすれば、犯罪とまではいえなくても、民事上は不法行為が成立する余地があります(賠償問題になる)。

また、たとえば、風俗店などいかがわしいお店で勤めている女性など、社会通念的に「そこにいることを他の人に知られたくない」人たちの写真を掲載したとすれば、プライバシー侵害や名誉毀損になるでしょう(名誉毀損は前々回書いたとおり、犯罪になります)。

でも、通常よく見られる程度の飲食店ブログの内容であれば、仮に人の顔が写り込んでしまったとしても、法的問題はないと思われます。
もちろん、断りもなく写真を載せるのは、特にそれが人の顔である以上、マナー違反であり、道義的には問題ですから、すべきではありません。

雑多に書きましたが、要するに、悪意のない表現行為であれば、それが法的責任を生ずることはまずありません。あとはそのお店に対する愛情と節度を持てば、マナー違反の問題も生じないでしょう。

と最後に無難にまとめてみましたが、以上、あくまで私個人の見解としてお読みください。
飲食店などを個人のブログで紹介することについての法的問題について、続き。

お店の情報を書物やブログに載せるのは、マナーの問題はあるけど、法的には基本的に問題ない、それはお店というのが一般公衆に「開かれた」場であるからだ、ということを書きました。

では、例えば、そのお店が一般には「開かれていない」場である場合はどうか。たとえば会員制のバーやクラブ、一見お断りの料亭などが考えられます。

これもやはり、法的問題はないと考えます。いかに会員以外お断りであっても、個人の自宅などとは違って、会員という、限定されてはいるものの不特定多数に対しては「開かれている」からです。
もっとも、高級店に出入りするような人であれば、そんなことを嬉しがってブログに書いたりしないでしょうし、もしそんなことをすれば上客として扱ってもらえなくなるでしょう。

では、会員制であってもなくても、そのお店の入口に、たとえば「撮影お断り」とか「ブログ、書物への掲載お断り」とかいう注意書きが書かれてあったらどうか。

私個人としては「そんな気難しそうな店には近付かない」のが良いと思うのですが、法的に考察すると、そういった注意書きを見てお店に入った以上、店主と客の間で「撮影、掲載はしない」という契約が成立したと見ることができる。その上でブログに書いたりすると、「契約違反」ということになります。

ただ、契約違反に対するペナルティはどうなるのかというと、実際にはそれを科することは困難です。
「撮影したら罰金1万円」などと書いてあったとしても、それに法的拘束力はない。国会でもない一個人が、人を処罰するような決まりを作ることはできません(街なかでも、「ここに駐車したら3万円もらいうけます」などと書かれてあるのをたまに見ますが、あれも法的には意味がありません)。

せいぜい、「約束したのに勝手にブログに書かれた」ということについての精神的苦痛の賠償を求めることができる程度にとどまりますが、そういったお店でも、客の出入りは可能な「開かれた」場である以上、賠償額はゼロに近いのではないかと思います。

ここまで書いていて、もう少し書きたいことが出てきたので、もう1回だけ続く。
ミシュランの京都・大阪版が出版されました。
読んではいませんが、どの店が掲載された、という報道を見てみると、そこそこ行ったことのある店もありまして、それでもその時は、特段おいしいとも思った記憶がなくて、まあ食べ物の味というのは私、よくわかりません。

京都では、「掲載拒否」したのに掲載された店もあったとか。そういう場合、法的問題はないのか。
ミシュランのような大げさな話でなくても、今やブログで飲食店の情報を書く程度のことは多くの人がやっていると思うので、この機会にざっと触れてみます。

まず、私たちが飲食店に限らず、お店の情報を書くのは、基本的には自由です。「表現の自由」です。

ただし、特定のお店や店員を誹謗するのは、名誉毀損罪が成立するし、ことさらにウソの内容を書けば偽計業務妨害罪も成立しえます。
また、民事上も、名誉毀損による精神的苦痛や、業務妨害による経済的損害について、賠償責任を負うことになります。

ぼったくられたとか、その店の食べ物で腹をこわしたとか、正当な批判であれば名誉毀損罪は成立しないこともありますが、そのためには、「多くの人々の利害に関わること、公益目的で書いたこと、内容が真実であること」の3つを証明しないといけないので面倒です。
だからそういう被害にあった場合は、ブログに書かずに、こっそりと警察に通報すべきでしょう。わざわざ書けば、書いただけの責任が発生しますので。

では、その店の店主が、上記の京都の店主みたいに取材拒否していて、個人のブログへの掲載も禁じているような場合はどうか。
その場合でも、書くのは自由と考えてもらって良いです(もちろん、上記のように犯罪になる内容でない限り)。

掲載される店側の「プライバシー」はどうなるのか、というと、世間に自分の看板を上げて商売をし、利益を上げているわけだから、その側面においては「プライバシー」はない。
もっとも、お店のことと関係なく、店主は実はスケベだとかいったことを書くと、名誉毀損やプライバシー侵害になります。

「写真」の掲載も、基本的には上記と同様に考えてもらって良いでしょう。
店舗の外観や内装、食べ物などは、それが店舗という開かれた空間に存在するものである以上、それを撮影して掲載すること自体に、法的な問題はないと思えます。

とは言え、店内で写真を撮るのは「マナー」の観点からは疑問なので、それをするのは、その店に通い詰めて、店主とも気心知れた仲になってからにすべきです。
一見の客が断りもなくお店の写真を撮りまくったり、自分自身は匿名のままに勝手な批評を載せたりするなど、恥ずべきことだと思えます。そういう人たちは、お店と決して良い関係を持てず、失うもののほうが大きいでしょう。

だからミシュランのやっていることに法的問題はないと思うのですが、京都方面では今後も「たかがタイヤ屋が」とバカにされ続けるのでしょう。

この話、もう1回続く予定。
最近、書きたいネタはたまっているのですが、事務所での業務も慌しく、自宅では息子が「はいはい」をしだして目が離せず、ゆっくり文章を書く時間がなかなかありません。

とりあえず今回は、札幌の書店で本棚が倒れ、小学生の女児が重体になった事件について。
この書店の店主は、民事上・刑事上の責任を負うことになるのか。それは、書店側に本棚の管理に「過失」(落ち度)があったか否かによります。

「過失」とは、当ブログでも度々書いてきたかと思いますが、「そういう結果を予見できて、回避できたのに、しなかったこと」を意味します。

書店だから、小さい子供を含めてたくさんの人が出入りするし、子供なら何かの拍子に本棚にぶつかってしまうかも知れない。ちょっとした地震程度ならしばしば起こる。
そういう事態は充分「予見」できるから、それに対応して、本を詰め込みすぎないようにし、本棚に「つっかい棒」などの措置をするなどによって、事故を「回避」しないといけない。

それをしないで事故を起こせば「過失」ありとなって、民事上は賠償問題となり、刑事上も過失致傷の罪になりうる。
ただ、想像を絶するような大地震が来たとか、子供が店内で常軌を逸する大暴れをしたせいで本棚が倒れたなどの場合は、不可抗力ということで過失責任は問われない。
…と、一応単純には言えますが、過失か不可抗力か、その線引きはなかなか難しいです。

教科書的に言えば、その結果を抽象的に想定できる、というだけでは足りず、「具体的に予見できる」必要があります。
私が素人に説明するときは、
「その結果を世間一般の人が見て、『まさかそんなことになるとは』と思う場合が不可抗力で、『そらそういうことも起きるで』と思う場合が過失です」と言っています。

冒頭の書店の事件がどちらにあたるか。警察がすでに本棚と本を押収して当時の状況を調べるらしいので、これからの調査を待つことになるのでしょう。


話は変わりますが、この事件で書店の経営者の人が取材を受けて、「本棚に問題はありませんでした」といった趣旨のことを答えていたのをテレビニュースで観て驚きました。

こういうときはひとまず、自分の店で人が大ケガしたことについて詫びるのが先だと思うのです(もちろん、メディアの前で謝罪する義務などないけど、あんなことを言うくらいなら会見などしないほうがいい)。
道義的な責任としてお詫びをした上で、法的責任があるかどうかは、後で慎重に検討すればよいのです。日本には幸い、「謝ったら負け」なんてバカな慣習はないのですから。

コンプライアンスか天ぷらうどんか知りませんが、薄っぺらな法令遵守の考え方を持ってしまうと、こういうときに人として当たり前の対応もできなくなるのだな、と思ってしまったのです。
岡田外相が、アフガニスタンを訪問しました(と、珍しく外交の話も書いてみようと思います)。

向こうの大統領と何を話したかというと、今後の支援についてです。
これまで日本は、アフガンに対する支援として、「海上自衛隊による海外給油活動」を行ってきました。鳩山政権はこれをヤメにすると言うので、それに代わる支援のあり方を協議したのです。

海上自衛隊はそもそも海外で何をしているのかというと、インド洋あたりで、アフガンやパキスタン(地図でいうと、たぶんインド洋の左上くらいにある)に向かうアメリカやイギリスなど多国籍軍の船に対して、燃料を供給しているのです。

アメリカやイギリスの船が何をしにインド洋を渡っているかというと、たぶん、アフガンにいるタリバンの残党と戦いに行くのです(今回よく知らない分野なので、「たぶん」が多くてすみません)。
タリバンと言えば、8年前にアメリカで同時多発テロを起こしたとされる、やっかいな人たちです。

日本の自衛隊は憲法上、海外での軍事行動ができないとされているので(解釈上、争いはありますが省略)、せめて燃料補給で協力しようというわけです。
一部雑誌や新聞で読んだ受け売りですが、この支援が、アフガンに向かう外国の人たちには、かなり好評なのだそうです。たしかに、海の上を進行している船に、その状態を保ったまま、給油を行うのは、考えてみればすごい技術です。

自動車を運転している人が、ガソリンスタンドに連絡して「ちょっと急いでいるので、走った状態のままガソリン入れてもらえませんか?」とお願いしたところで、きっと断られます。海上でそれをやるわけですから、先を急ぐ外国艦隊の人にも喜ばれるでしょう。

それをやめるのだそうです。それは多国籍軍や、その救援を待っているアフガンやパキスタンの人たちにとって、不安なことでしょう。逆にタリバンにとっては、補給の要路が断たれたということで、喜ばしいことです。果たしてそれで良いのか。

自衛隊は軍隊じゃないのだから、海外の活動などしなくて良いのだ、と言ってしまっていいかどうかには、大いに懸念があります。
やっかいな国や人は、地球上、タリバンに限りません。日本には近くに北朝鮮のようにミサイルをばんばん飛ばしている国があります。
そういう国が日本をおびやかすようなことをしてきたとき、外国に助けに来てくれと言ったとして、給油の手伝いすらやめてしまった国に、どこまで親身になってくれるのか。

給油はやめたいし、イザというときのために国際社会は頼みにしたい、となれば当然、次は「じゃ、カネだせ」ということになります。子ども手当の財源など吹き飛ぶくらいの支出になるでしょう。

結局、私はこれも「変えないほうがよい」ことだと思っています。

給油活動も、憲法の制約の中で日本は何ができるかということを、国内のいろんな考え方の人と妥協し、諸外国とも交渉しつつ行ってきた、ぎりぎりの国際協力なのです。
それを、「自衛隊は海外に出るべきでない」という理念だけでヤメてしまうと、これまでぎりぎりのところで成り立っていた様々なバランスが崩れてこないかと、心配しています。
前回書いた夫婦別姓の話もそうなのですが、世の中、「そこは変えないほうがいいんじゃないの?」と思うことが結構あります。

そのひとつが国家公務員のキャリア制度です。
国家公務員1種試験を受けていわゆるキャリアとなった人は幹部候補となり、2種以下の試験を受けたノンキャリアとは、出世の仕方が全然違う。
最初の試験で一生が決まってしまうのはおかしいと、公務員試験を一元化し、昇進は「実力主義」にしようという考え方が最近有力です。

しかし、そういう「改革」をするとどうなるか。
2種試験を受けて、出世はせいぜい課長どまりだけど、特に不満なく勤めている、働き盛りの中年男性がいるとする。そこに「実力主義」が持ち込まれると、奥さんに「実力次第で部長、局長、事務次官にもなれるんだから、もっと働きなさいよ」と、一生、尻を叩かれることになるでしょう。
(このへんの話は、元自治省キャリア・元筑波大教授の加藤栄一氏も著書で指摘されていて、旧ブログでも何度か取り上げました)

公務員試験が一元化すると、受験する側も大変です。
キャリアなんて考えないけど、2種くらいで公務員になれたらいいな、と考える大学生は、きっとたくさん存在する。そこで1種と2種の試験を同じにするとどうなるか。
もし、試験のレベルを1種のほうに統一すると(司法試験と同じくらいのレベルになる)、2種を目指して「そこそこ」な勉強をしていた大学生は悲鳴をあげることになる。

(かと言って、試験の難易度を2種レベルで統一すると、キャリアを目指して猛烈な勉強をしていた大学生はみな満点を取ってしまい、順序がつけられなくなって試験の意味がなくなります)

夫婦別姓も同じで、これまでは結婚したら同姓(多くは男性の姓)になるということで、(そのことの当否はともかくとして)多くの方が特に疑問を感じなかったのが、今後は別姓も「選択」できるとすると、同姓にするか別姓にするか、自分たちで決断しないといけなくなる。

すでに結婚している人も別姓が選択できるようになるのか否かは知りませんが、もしそうだとすると、これまで同姓で暮らしてきた夫婦に、要らぬ波風が立つことになります。
私だって、妻が長男と一緒に旧姓に戻すなどと言い出したら、「エッ」と思うでしょう。
うちはまだ新婚だし、それで夫婦仲が壊れることはないでしょうけど、世の中にはそれをきっかけに険悪になる夫婦もたくさんいると思います。

公務員の実力主義も、夫婦別姓も、聞いている分には良いことのように思える。
しかし世の中、一生実力主義でのしあがっていきたいと考える人ばかりでもないし、夫婦や親子で同姓か別姓か議論したいという人も少ないでしょう。

「とりあえず、今のままでいい」と思う方は、あまり声をあげないけど、間違いなくたくさん存在するのであって、制度の改革にあたってはそれらの人の声を慎重に聞かないと、社会に不安をもたらすと思います。
夫婦別姓法案が、またも民主党から提出されるらしい。
これまでの野党時代にも提出されていたようですが、今回は与党となっているわけだから、実現する可能性は高まっています。

これに関しては、旧ブログでも触れましたが、2年前の内閣府の世論調査によると、法律を変えて別姓を認めるべきだという考えと、そうすべきでないという考えは、ほぼ拮抗している。
詳細はこちら。平成19年1月の記事へ。

導入が検討されているのは「選択的夫婦別姓」で、結婚して姓を同じにしたい夫婦はこれまで通り統一すればよいし、別姓を維持したい人はそうできる。
夫婦になる人が、自分たち意思でいいように決めればよい、と言われると、良い制度のように見えますが、実際には、これまでになかった多くの問題が出てくると思います。

よく言われる、「子供がどう思うか」の問題を抜きにしても、以下のようなことが考えられる。

たとえば、ある男性は、結婚する相手にはやはり姓を同じにしてほしいと考えたとする。その人がオトコマエで年収も多ければ、数多の女性の中から、自分の姓を名乗ってくれる女性を選べるでしょう。そうでない人は、「不本意」でも別姓を選択せざるをえない。

またある女性(Aさん)は、名家の御曹司に輿入れすべく婚活に励み、それを果たし、その名家の姓を名乗ることができたとする。別の女性(Bさん)は、有名でも裕福でもない家の息子と結婚し、別姓を名乗ったとする。たぶんAさんは、Bさんを見下すでしょう。

同姓か別姓かが、新たな格差の要素となるかも知れない。

また、ある会社では、社長が非常に保守的な考え方をしていて、社員の奥さんが別姓だったりすると、「こいつは自分の家すら一つにまとめることができんのかね」ということで、社内の人事評価が下がるかも知れない。

かように、二人の自由意思で選択できるのだと言われても、そこには、結婚する男女の力関係や、勤務先との関係や、世間体や見栄など、いろんな要素が入り込むのです。

たぶん、法案推進の中心となっている法務大臣の千葉さんや、消費者・少子化担当大臣の福島さんがこういう話を聞けば、
「マア何て古い考え方をお持ちなんでござあましょう、オホホ」
と笑うのでしょう。

しかし、そういう古い考え方を持つ人たちが、内閣府の調査からも明らかなとおり、世の中にたくさんいる。
それを無視して、性急に別姓制度を現実化させてしまっていいのか、極めて疑問を感じるところです。
<< 前のページ 次のページ >>
お知らせ
一時的に戻ってきました。 左上に「裏入口」という小窓が出てくるかも知れませんが、当ブログとは関係ありません。おそらくアダルトサイトへの入口なので、クリックしないでください。
現在の来訪者数
ブログ内検索
アクセス解析
忍者ブログ [PR]