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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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セブンイレブンに対して公正取引委員会が排除命令を出しました。
当事務所では独占禁止法がらみの案件は扱ったことがないので、教科書レベルの話しか書けませんが、これについて触れます。

ご存じかと思いますが、コンビニのセブンイレブンの加盟店オーナーの一部が、賞味期限切れ間近の弁当などを値引きして販売していた。
セブンイレブン本社は、イメージが低下するからやめろと指示し、「やめなければフランチャイズ契約を解除する」ことをほのめかしたとか(新聞報道による)。

この本社の行為は、独占禁止法で禁じられている「優越的地位の濫用」にあたるとして、公正取引委員会が「そんなことはやめなさい」と排除命令を出しました。

優越的地位の濫用とは、強い立場にある者が、弱い立場の者につけこんで、有利に商売しようとすることを言います。

たとえば、実際によくある(らしい)のは、大型電器店が、家電メーカーに対し、家電をたくさん仕入れてあげる代わりに、メーカーの社員を店舗販売の手伝い要員によこせと要求する、といった行為です。
それを断ると「あんたのところと取引はやめる」と言われてしまうので、よほど有力なメーカーでもない限り、売上維持のために従わざるをえなくなる。独禁法はこういった行為を禁じています。

セブンイレブンの問題では、本社は加盟店に対し、値引き販売を禁じつつ、賞味期限切れの商品を廃棄することを命じ、さらにそのコストは各店舗に押し付けていた。
「それがイヤならフランチャイズ契約をやめてくれて構わない」というわけですが、契約解除されると、セブンイレブンの看板を使えなくなるし、本社からの商品の供給もストップする。業務を廃止させられるに等しいでしょう。これが優越的地位の濫用にあたるとされたわけです。

たしかに、毎日大量に、賞味期限をちょっと過ぎただけの食品が廃棄されるのは、誰でも「もったいない」と思うし、値引き販売は私たち消費者にとってお得です。
加盟店オーナーの気持ちと、排除命令を出した公正取引委員会の考えは、誰でも理解しやすいでしょう。

しかし一方、本社と加盟店の間では、きっと、商品管理については本社の指示に従うこと、賞味期限を過ぎたら店の負担において廃棄すること、といった契約が定められていたでしょう。「もったいない」のは確かだけど、それだけで契約という法的拘束力を持つものを破っていいかは問題です。

それに、加盟店はこれまで、セブンイレブンの看板のおかげで、売上げを伸ばしていたのも事実でしょう。
たとえば街なかで弁当を買おうとして、セブンイレブンと「コンビニエンス田中」という聞いたことない個人営業の店が並んでいたら、多くの人はセブンイレブンのほうに行くでしょう。それはやはりセブンイレブンに対するブランドイメージと、サービスや商品に対する安心感があるからです。

ブランドイメージで売上げを伸ばしておいて、一方で、廃棄コストがかさんできたら契約に反して値引き販売する。廃棄コストが生じるのは加盟店にとって最初から予想できたことで、それを承知でフランチャイズ契約を結んでいたはずです。そう考えると、本社側の主張にもそれなりの正当性がある。

難しい問題ですが、私個人としては今回、加盟店側を応援しています。
コンビニにお昼を買いにいくと、たまに、お昼用の弁当やサンドイッチがまだ届いていないこともあるし、それに、私が好きな総菜類はなぜかすぐに取り扱いされなくなってしまうからです。
本社による商品管理が必ずしも私のニーズに合っていない、という個人的な理由です。
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当サイトが、資格試験予備校のブログ紹介のコーナーにリンクされました。
「LEC人気講師ブログ」 だそうです(私自身は長年のマイナー講師だと思っているのですが)。

だからということでもないのですが、これまで、司法試験教育のあり方、特に「詰め込み」教育の是非について、まとまらない話を書きまして(4月1日記事 と 4月8日記事)、その続きを書こうと思います。

どんな世界でも、「プロ」になるためには、合計10,000時間の練習をする必要がある、
という話を聞いたことがあります。

この話、誰が言い出したか、またどれだけ実証的根拠に基づくものかは知りませんが、これまで新聞のコラムなどで複数、この話に言及しているのを見ましたし、ネットで検索してみても何万件とヒットするので、きっと広く受け入れられた話なのでしょう。

私自身は、法律のプロたる弁護士になるために、どれくらい「練習」(勉強)したか。
上記4月8日記事にも書きましたが、約2年間、受験勉強をし、1日12時間とかそれ以上に勉強していた日もありましたが、一方でたまには勉強をしない「休日」もあったので、平均すれば1日10時間ということにしておきます。

ですから1年で3,650時間、2年で7,300時間。正確には2年と数か月は勉強していたので、合計しておそらく7,500~8,000時間の勉強時間でしょう。

その後さらに、司法研修所で1年半の司法修習を受ける。
朝9時ころから夕方5時まで、講義を聴いたり、実地研修で法廷に座ったりして、時には半分寝ていることもあったので、これをどの程度「練習」時間と見ていいかは問題ですが、予習・復習の時間も含めると、まあ、1年半で2,000時間(1日あたり3~4時間)くらいはやったことにはなるかと思います。
駆け出しの弁護士になるにも、10,000時間相当の勉強は必要ということです。

もちろん、10,000時間の中身も重要です。
司法試験に限らず各種試験の受験生に多いと思われるのは、講義を聴いているだけで勉強した気になって安心してしまう人です。
しかしいかに講義の上手な名講師でも、聞くだけで試験に受かるという講義はあり得ない。聴いたことを自分で復習して身につけて、試験本番と、その後に実社会に出たときに使いこなせるようにしないといけない。
講義を聴いているだけで終わるのなら、もはや練習時間とは言えない。

法科大学院の講義を、私は聴いたことがないのですが、それがいかにすばらしくても、講義だけでは試験に受からないし、法律をつかいこなすプロにはなれない。

スポーツ選手が正しいフォームの練習を繰り返すがごとく、司法試験の場合は、法的知識を繰り返し読み込んで頭に入れて、いつでもつかいこなせるようにする「練習」が必要です。これすなわち「詰め込み」です。
「詰め込み」に否定的なニュアンスを感じてしまう人でも、「練習」と言えば、誰もその必要性を否定しないでしょう。2つは同じことです。

だから、「司法試験教育に詰め込みはダメ、法科大学院では詰め込みでない教育をする」と、一部の法科大学院関係者が言うのは、そもそも間違っているし、また一部の受験生には「講義を聴いているだけで受かる」式の誤解を生むおそれをも含むと思っています。

また、思いついたころに続きを書きます。
前回の続きで、刑事訴訟制度は誰が作ったのか、という話をしようとしています。

現在の刑事訴訟法を作ったその人は東大出身の学者で、戦後すぐ、その人が30歳ころで東大の助教授をしていたとき、GHQから呼ばれて、刑事訴訟法を新しく作り直すように命ぜられました。

その人は、昭和50年ころ、60歳になって最高裁判所に呼ばれて、判事の一人となりました。そして判事として活動していたとき、ある刑事事件を裁くことになった。
1審・2審で死刑判決が出ている殺人事件ですが、判決文を仔細に検討してみると、その被告人が犯人か否か、冤罪ではないかという、一抹の不安が残った。

しかし、刑事訴訟法には、最高裁は「重大な事実誤認」がないと原判決を破棄できないと定められている。一抹の不安では足りず、原判決を見て明らかに重大な間違いがあるといえない限り、原判決をそのまま認めないといけない。

だから最高裁としては、弁護側の上告を棄却し、死刑判決を維持せざるをえなかった。
そして判決の日、法廷で判決言渡しを終えて退廷しようとしたとき、傍聴席の、おそらく被告人の親族であろう人から、「人殺しーっ!」と罵声がとんだそうです。

プロの裁判官なら、傍聴席のヤジなど意にも介さないでしょう。しかしその人は、死刑にしていいか一抹の不安を抱きながら、しかも自分自身で作った刑事訴訟法の条文に縛られて、死刑を宣告せざるをえなかった。
その人は、この事件がきっかけで、死刑廃止論者になりました。

ここまでの話で、法律を学んでいる人ならきっとわかったと思いますが、「その人」とは東大名誉教授、元最高裁判事の団藤重光です。


足利事件で最高裁が平成12年に弁護側の上告を棄却したのも、同じ理由だったでしょう。5人の判事の中には「DNA鑑定なんて頭から信じていいのかね」と思う人もいたはずです。でもそれは「一抹の不安」に過ぎないのであって、当時の技術と知見を前提にすれば、明らかに重大な誤りとまでは言えない。

では、団藤氏が作った刑事訴訟法が誤りであったのか。たとえば、「重大な事実誤認」がなくても、「原判決に少しでも疑問を感じた場合は、最高裁は再鑑定その他の審理のやり直しを命ずることができる」という条文にすればよかったのか。

しかし団藤氏がそんな法律案を出したら、GHQは承知しなかったでしょう。「こんなゆるゆるの刑事訴訟法で、日々生じる犯罪をさばいていけると思っているのか」と、作り直しを命じたことでしょう。

もし仮にGHQが承知してそんな法律ができていたとしたらどうなったか。
きっと、オウム真理教の麻原、光市母子殺害事件、和歌山毒カレー事件などなど、多くの刑事事件において、審理のやり直しが度々行なわれ、裁判はもっともっと長期化したはずです。きっと世論が「そんな法律変えてしまえ」と言っていたでしょう。


足利事件の判決は、いま考えると間違っていたのだけど、当時の犯人逮捕にかける世論の期待と、世間一般に通用していた科学万能の考え方と、そして様々な歴史的経緯があって成り立ってきた刑事訴訟制度の中で、ある程度は不可避的に生じた側面もあると思っています。

当時の捜査がどこでどう間違ったのか、検証してみることももちろん重要ですが、個人責任を追及して謝罪させるのは、問題を矮小化するように思われます。
根本的には、刑事訴訟制度をどうすればいいか、どこまで慎重な審理を求めていけばよいか(慎重な審理はいくらでもできるが、それだけ裁判が長期化することを許容できるか)という、制度の選択の問題です。

裁判員制度が施行されて刑事裁判がイヤでも身近になった現在、この選択は一人ひとりの国民に問われているのだと思います。
足利事件について、もう少し雑感を書きます。

DNA鑑定の結果がひっくり返って無罪とされた(まだ再審でそう決まってはいないですが、おそらく確実でしょう)。これからも、科学的捜査などというものについて、慎重な目、疑いの目を向けるべきであるという考え方には変わりはありません。

ただ、この一件で、最高検察庁や栃木県警が菅家氏に謝罪したという報道に接し、
果たしてこの問題は、当時この事件を扱った警察官、検察官、裁判官らがずさんな処理をしたためなのか、彼らの個人的責任に帰することができるのかといった、ふとした疑問を持ちました。

最近私は、この足利事件の判決を、1審から最高裁判決に至るまで、全文読んでみました(弁護士ならたいてい、過去の主要な判決文が閲覧できるソフトを導入しているので)。

宇都宮地裁の1審判決(平成5年)は、これが実に説得的な有罪判決であり、DNA鑑定結果以外にも様々な状況証拠を指摘しつつ、被告人を有罪としている。

いま現在の知識・技術を前提にすれば、DNA鑑定結果を信頼してしまった点は誤りなのですが、当時の判例雑誌などを見ても、この判決をあからさまに批判する評釈は(少なくとも私が見た限りでは)ない。もちろん当時のマスコミもそんな指摘はしておらず、新聞には「幼女殺害犯に無期懲役」などという大きな見出しが躍ったはずです。

2審の東京高裁判決(平成8年)も、最高裁判決(平成12年)も、1審判決に誤りはないとしています。最高裁判所は、当時の第2小法廷の5人の裁判官が、全員一致で弁護人の上告を棄却し、無期懲役を確定させている。

最高裁すらその誤りを見抜けなかったのですが、最高裁は本来、憲法解釈や判例違反などを審理する場であって、足利事件のように、ホントにやったか否かが争点になる場合は、「重大な事実誤認」がない限りは、原判決を破棄できないことになっている(刑事訴訟法411条。以前にも触れました。こちら)。

あくまで当時の科学技術とそれに対する世間一般の信頼といったものを前提に、1審・2審の判決を読めば、そこに「重大な事実誤認」があると言えるかは疑問です。そんな指摘ができた人は、最高裁の5人の判事以外でも、当時ほとんどいなかったはずです。

(もちろん、当時の判断が誤っていることが、時の経過や技術の進歩により明らかになることがある。その場合にそれを正すのが「再審」制度であり、足利事件においてもこれからそれが行なわれようとしている)

ですからこれは個人の謝罪の問題ではなく、そういう刑事裁判「制度」の問題なのだと、私は考えています。
では、そもそもそんな「制度」を作ったのは一体誰なのだ、と、次回はそんな話を書いてみようと思います。続く。

たまには政治の話を、浅く書いてみます。

議員の世襲を制限しようという動きがあります。国会議員の息子や娘は、親と同じ選挙区から出られないようにすると。自民党はその導入を「延期」したとかで、民主党からまた「ブレてる」と批判されているようですが。

私自身は、延期どころか、そんなこと決して導入すべきでないと考えています。
何せ、被選挙権(選挙に出る権利)は、我々国民にとって民主主義の実現のために物すごく重要な権利です。それを、「たまたま親が政治家だったから」という理由で奪うべきでない。

そもそも、世襲にどんな弊害があるのか。おそらく、世襲制限すべきだという人の多くは、
「ここしばらくの総理大臣(小泉、安倍、福田、麻生)がみな世襲議員で、庶民の気持ちがわからない人ばかりで、何だか国政もゴタゴタしている」という程度の認識で言っているのではないか。

ならばその人たちは、ここ何代かの総理大臣がもし世襲議員でない人であったとしたら、この国の状況は今と違って良くなっていたと本気で考えているのか。

たとえばアメリカ金融危機に端を発する国内の不況も、世襲の総理でなかったとしたらマシになっていたのか。さすがに政治はそんなに単純なものではないでしょう(現に新型インフルエンザ問題では舛添大臣は世界から笑われるくらいの大げさな対応をし、その割にはバンバン感染者が出ている。舛添さんは世襲議員ではないはず)。


全く話は変わりますが、私が京都に仕事に行った際に、帰り道によく立ち寄る老舗のバーがあります。マスターはとうに還暦を越えています。
マスターには大学生の息子さんがいるのですが、年配の常連客がよくマスターに「息子はいつ店を継ぐのや?」と言います。冷やかし半分でしょうが、残り半分は本気でそれを望んでいるでしょう。私も同じ気持ちです。

バーテンダーの仕事も大変です。このマスターは、毎日遅くまで仕事して、深夜、(失礼ながら)「老骨に鞭打った」ような状態で家に帰るのでしょう。この店に限らず京都のバーは日曜も営業しているところが多いので、子供と接する時間も少ないはずで、奥様に文句を言われることもあるでしょう。

たまに、マスターと常連さんたちとで京都の料理旅館で宴会したりしますが、その際もマスターが、旅館やバスの手配、料理や持ち込む酒の段取りなどして、客に失礼のないよう心を砕いているはずで、そんなことは営業中にはできないから家でやっているのでしょう。

そういう大変な部分ばかりを見て育ってきた息子さんが、「自分もこの店を継ぎたい」と言ったとすれば、それは非常に頼もしいことです。
上っ面だけ見て、何となくカッコいいからバーテンダーを目指した、という人よりは、よほどこの仕事を任せるに足る人材であるといえます。

そのあたりは、バーテンダーも、政治家も、その他多くの職業も同じでしょう。仕事の本当の大変さや、そして大切なポイントは、マニュアルにも書いていないし、学校でも教えていない。しかし「世襲」の人たちなら、生まれながらにしてそれらを見て、身に染み付いているといえる。

かように私には世襲の何が悪いのか、理解できないのです。
弊害の有無を何ら厳密に検証しないまま「何となく世論がそうみたいだから」というだけで議員の世襲を制限してしまえば、ことが「被選挙権」という人権であるだけに、「雰囲気だけで人権を制限できる」という、とんでもない先例ができてしまって危険であると考えます。
女児殺害事件で無期懲役の刑に服していた菅家受刑者が釈放されました。

DNA鑑定が間違っていたために逮捕されてから17年間、刑務所で暮らしました。歴史に残る冤罪になるでしょう。
この問題はすでに触れたのですが(こちら)、この事件のこれからのことについてもう少し。

冒頭に「菅家受刑者」と書きましたが、これは、平成12年に出された最高裁の有罪判決がまだ取り消されていないからです。わが国の法制度上、この人はまだ、「女児にわいせつな行為をして殺害した犯人」とされている。この人が「受刑者」、「犯人」でなくなるには、再審を待たなければなりません。

おそらく、ほどなく再審が行なわれて、有罪判決は取り消されるでしょう。マスコミはすでに、菅家受刑者の呼び名を「菅家さん」に変更しています。

さて、冤罪で17年間も刑務所に入れられたことは、どう償われるのか。
法律上は、刑事補償といって、1日あたりいくらかのお金が給付されることになっている。といっても、アルバイトの日給程度の安い金額だったはずです。

あと、捜査にあたった警察や検察、そして有罪判決を出した裁判官たちの責任を追及することはできるのか。
これは制度上、できることになっています。国家賠償法は、公務員の行為によって国民が損害を受けた場合に、国や県が賠償することを定めている。
しかし、実際には困難で、賠償を認めさせるためには、その公務員に「故意または過失」がないといけない。

警察官や裁判官が、「故意」つまり無罪と知っていてわざと犯人にしたてあげたというわけでは、さすがにないでしょう。
「過失」はあるかといえば、今にしてみれば稚拙なDNA鑑定でも、当時の最高水準の科学的捜査とされていたので、証拠として信頼したことに、落ち度があるとは言い難い。

それにしても、刑事裁判の難しさと、科学的証拠を妄信することのおそろしさを感じさせる事件でした。そしておそらく、この事件以外にも、きっと、冤罪は他にもあるのでしょう。

たとえば和歌山毒カレー事件の林真須美死刑囚も、再審で無罪を争うと言っている。
この人の自宅にあった砒素と、カレー鍋に付着した砒素は、「科学的」に調べたら一致したとされ、それが状況証拠の一つになっている。
そしてきっと多くの人が、コイツが犯人だ、再審なんて何を言ってるんだ、と思っているのではないかと思います。

しかし、今回の菅家受刑者でも、有罪判決が出た当時は世間の多くの人が、変態、殺人者、一生刑務所に入っていろ、と思っていたに違いありません。それを思うと、いったい何が真実なのか、わからなくなってくる。

刑事裁判の難しさを改めて認識させられました。そしてそんな状況の中、裁判員制度は施行されました。
「原田伸郎が拳銃所持で書類送検された」と、ネット上のニュースの見出しを見て驚きました。あの原田伸郎が、どうして拳銃なんか持っていたのか。

原田伸郎は、たぶん多くの方がご存じだと思いますが、清水国明と「あのねのね」というデュオで活躍していた方で、コミックソングの元祖みたいな存在です。
昭和50年初頭のころ、5歳くらいだった私にとって、「あのねのね」は「ザ・ドリフターズ」とともに「面白いおじちゃんたち」として双璧をなしておりまして、
「犬ワンワンワン、猫ニャンニャンニャン、カエルもアヒルもガーガーガー」
という、いま思えば何が面白いのか分からないフレーズで、一世を風靡しました(よね?)。

と、そういうどうでもよい回想はともかく、
原田伸郎がやったことは、新聞やネットの記事によりますと、滋賀県のローカル番組で地元の猟師さんの取材をした際、その猟師の猟銃を手渡されて、「重いですねえ」と言いつつ持ったことが、銃砲刀剣類等取締法、いわゆる銃刀法にあたるとされたらしい。

銃刀法によると、「正当な理由なく銃を所持してはならない」ことになっていて(条文は適宜意訳)、猟師や警官なら厳密な管理の上で所持することが許されるが、タレントである原田伸郎は当然そんな資格は得ていない。それで銃刀法にひっかかったとのことです。

猟師の目の前で、手渡された猟銃を持っただけで、果たして「所持」したことになるのか。
所持とは、簡単に言えば、物を管理・支配している状態です。ヤクザが売人から拳銃を買ったとか、その子分が預かって保管していたというのが典型です。

一瞬だけ手にするのも、管理・支配したことにあたるのか。
この点、モノの本によりますと、判例上は、所持の態様(特に所持した上での移動距離)や、時間的継続といった点から、総合的に判断されるとあります。

問題となった場面を私は見ていないので、あまり断定的には言えませんが、
例えば、猟銃を渡された原田伸郎が、カメラに向かって数歩あるいて、
「犬ワンワンワン、銃バンバンバン」、とでも悪ふざけしたとしたら、短時間ながら銃を管理・支配したと言えるかも知れない。

しかし、目の前の猟師に手渡されて、重さを確かめてすぐ返した、という程度であったとすれば、所持にあたらないのではないか。その映像を見て、「あっ原田伸郎が猟銃を手に入れてしまった」と思う視聴者はきっといないでしょう。

草なぎクンの公然わいせつ事件が「不当逮捕」だったとすれば(私個人は不当とは思っていないのですが)、この件のほうがよほど「不当書類送検」と言えると思ってまして、個人的には草なぎクン逮捕よりショックに思っています。

幸い、原田伸郎はあくまで「書類送検」であって、草なぎクンみたいに逮捕されて身柄ごと検事に送られたわけではない。今後、担当検事としては、「所持」の解釈をぜひ厳格に捉えて、適切な処理をしてほしいと思っています。
先日、執行猶予と実刑の分かれ目について書きましたが、そもそもこの執行猶予とは何かについて、少し触れます。

「執行猶予」とはどういう状態か、たとえば、小室哲哉の詐欺事件で出た判決、「懲役3年、執行猶予5年」とは、どういうことになるのか。

これを、「5年間は待ってくれた上で、その後、刑務所に3年いかないといけない」と思っている人がたまにいますが、もちろん違います。それなら、あんまり嬉しくない。

多くの方はご存じのとおり、これは、「5年間待ってくれて、その間、問題を起こさずに過ごせば、刑務所3年はナシにしてくれる」という状態です。
これに対し、執行猶予がつかずに実際に刑務所に行かされることを「実刑」といいます。

執行猶予がついたあとはどうなるか。
まったく普通に生活してよいのですが、ただ執行猶予中の人が、また犯罪を起こして懲役刑に処せられると、執行猶予は取り消される(刑法26条)。

たとえば小室がここ5年のうちに、食うに困ってジャン・バルジャンみたいにパンを盗んで、窃盗罪で懲役1年の判決を受けたとする。
そうすると、執行猶予にしてもらっていた詐欺罪での懲役3年が実際に科せられることになり、新たに窃盗罪での1年が加わって、合計4年になる。

執行猶予中にやった犯罪には、まず執行猶予はつかないと思ってもらっていいので(詳細は省きますけど、刑法25条2項)、4年間、実際に刑務所に行かないといけなくなるわけです。

さらに、懲役刑に限らず、罰金刑に処せられたときでも、執行猶予が取り消される可能性がある(刑法26条の2)。
罰金刑はかなり多くの場合に定められており、たとえば道交法などは罰金刑の宝庫であって、車間距離を取らないとか、転回禁止違反とかでも、「5万円以下の罰金」を科することができることになっている。

とはいえ、懲役刑なら必ず執行猶予取消しなのに対して、罰金刑の場合は「取り消される可能性がある」ということなので、かなり悪質なケースに限定される運用になっているとは思うのですが(実際に調べたわけではありません)。

いずれにせよ、執行猶予期間中はいっそう身を慎むに越したことはないわけでして、
たまに刑事弁護を担当して執行猶予がついた人から、猶予期間は何に気をつけたらいいですかと聞かれることがありますが、そのときは「可能であれば車に乗らないでください」ということにしています。
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