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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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 前回の続き。尖閣事件の映像を流出させた人(海上保安庁の職員が名乗りでたようですね)は、国家公務員法の守秘義務に反し、秘密漏示罪にあたるのかについて検討します。

難しい問題であると前回も書きましたが、そういう場合、私たちは、過去の判例に似たようなものがないかを探り、それとの対比で考えることが多いです。

国家公務員の守秘義務違反として最も有名なのは、「外務省機密漏洩事件」でしょう。
これは、昭和46年(1971年)、アメリカ占領下の沖縄を日本に返還するとの日米協議が行なわれている過程で、数百億円かかる米軍の退去費用を日本が立て替えで負担するという「密約」がある、との情報が漏らされたという事件です。

この情報は、外務省の女性事務官が毎日新聞の男性記者に漏らし、新聞で大スクープとなりました。その女性事務官は秘密漏示罪で起訴され、男性記者はそれをそそのかした(教唆犯)として起訴された。

この密約が「秘密」に当たるのかというと、常識的に考えて、当たるとして良いように思えます。退去費用を負担すべきか否かという問題でゴタゴタしだすと、まとまる話もまとまらなくなるからです。

そのことは最近の普天間基地の移転問題を見ても明らかです。鳩山政権になってから、県外移転だ、いや国外だなどと、ばらばらなことを言っているうちに、移転協議は何ら進まないどころか、自民党時代に進めてきたことよりも後退してしまっています。

沖縄退去の費用負担問題でも、当時の佐藤栄作総理がもし「広く国民の皆さんの意見を聞いて…」などと言っていれば、いま現在でも、沖縄はアメリカ領のままだったかも知れない。

この事件の審理にあたった東京地裁も、「秘密」の定義について、前回末尾に紹介したのと同じような理屈を展開し、保護する必要性のある秘密とは、その情報が漏れてしまうと公務の能率的な運営ができなくなるような情報だ、と言いました。

結論として、密約の存在は「秘密」に当たるということで、女性事務官に有罪判決(執行猶予つきの懲役判決)。一方、男性記者に対しては、「取材の自由」を重視し、記者が事務官から情報を聞き出すことは正当な業務であるとして無罪としました(昭和49年1月31日判決)。

ここまで書いたのでついでに書きますと、男性記者は高裁・最高裁では有罪となり、同じように執行猶予つき懲役判決を受けています。

この男性記者は、女性事務官に酒を飲ませて迫り、肉体関係まで持った上で、その「情交関係」を通じて情報を入手したらしく、「取材行為としては相当でない」(要するに「寝ちゃイカン」)とされたのです。

さらに付け加えますが、日米間で本当にそのような密約があったのか否かは、実際にはよくわかりません(詳しい方がおられたらご教示ください)。しかしこの当時、佐藤総理はこの問題に一切言い訳することなく、最終的に沖縄返還にまでこぎつけ、後年、平和的手段による領土回復を果たしたということでノーベル平和賞を授与されています。

今、菅総理が「5年後、10年後には必ず評価される対応をしている」と、言い訳にもならない言い訳をしているのは、まさに笑止というべきです。

などと書いているうちに長くなりましたので、尖閣事件の映像が秘密に当たるかどうかの検討は次回に。
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 尖閣諸島沖での衝突事件の映像が流出した件で、政府・民主党は「犯人」探しを始めるとともに、罰則の強化を検討し始めたようです。

流出が海上保安庁の内部の人によるものかどうかは知りません。しかし現場付近では以前から、漁業で生計を立てている人たちが中国船に悩まされ、海上保安庁が文字通り命がけでそれを排除しようとしたわけです。

画像流出の「犯人」を処罰しようというのであれば、民主党があれだけ「国民の生活が第一」、「命を守りたい」などと言ってきたのと全く矛盾すると思うのですが、もしかしたら民主党の言うところの「国民」や「命」とは「中国人の」ことだったのかも知れません。

それはともかく、政府・民主党は、画像流出が「国家公務員法の守秘義務に反する」と言っているようなので、法解釈的にそう言えるのか否か、検討してみます。

国家公務員法によると、公務員は職務の上で知った秘密を漏らしてはならないとされており(100条1項)、これに反すると、1年以下の懲役または50万円以下の罰金とされます(109条12号)。

公務員にも、言いたいことを言うという表現の自由はあり(憲法21条)、それに対応して国民にも知る権利があるのですが、国益に関する高度な判断について、ある程度は「国家機密」が生じるのはやむをえません。

極端な例で言えば、ある検察官が、この容疑者はこんなにひどいヤツなんだということを世間に喧伝しようと思って、被害者の死体写真をインターネットでばらまくのも自由だということになれば、かなりおぞましい事態だと思います。だから一定の守秘義務は必要です。

では、守秘義務によって守られるべき「秘密」とは何か。
この点は、時の政府が「これは秘密にしておきたい」と思うだけでは足りず、またファイルやビデオテープに「マル秘」のハンコが押してあるだけでも足りません。

最高裁(昭和52年12月19日決定)は、「実質的にもそれを秘密として保護するに値すると認められるもの」でないといけないと言っています。

秘密として保護に値するものとは何かというと、そこから先は事件ごとに考えるしかないのですが、憲法の教科書などによれば、「非公知性、必要性、相当性」の要件が必要とされています(佐藤幸治「憲法」)。

もともと一般国民が知らないことで、国益のため秘密にする必要があり、刑罰をちらつかせてまで秘密を守ることが相当な情報、それが国家の秘密であるというわけです。

今回の衝突事件の映像が、この要件にあてはまるか否かについては、考え方は分かれるかと思います。心情的には、映像を流出させた人には「よくやった」と言いたいですが、法解釈として無罪と言ってよいかについては、私の考えがまだまとまっていません。そのあたりは、次回以降に書きたいと思います。
前回の続きで、田原総一朗氏に「取材源の秘匿」が認められるかを検討したいと思っています。

すでに旧ブログで触れているのですが、この問題は「民事裁判で証人になった人が、取材源(ニュースのネタ元)を黙秘できるか」という形で争われたことがあります。詳細は4年前に書いた記事(こちら)を見ていただくとして、改めてこの事件を単純化して紹介します。

NHK
が、ある会社が脱税しているという報道をし、その会社は事実無根だとNHKを訴えた。NHKは、きちんと取材して、ある役人からその情報を聴いたと主張しました。NHKの記者が証人尋問を受け、どこの役人からどういう話を聞いたのか答えよ、と聞かれたが、NHK記者は黙秘した。この黙秘が認められるかどうかが争われました。

最高裁は、取材源の秘匿を理由に黙秘できるか否かについての判断基準を明らかにしました(平成18年10月3日判決)。

要するに、黙秘を認めてそれによってジャーナリストの取材の自由を確保するほうがよいか、または、証言させて、それによって民事訴訟の争点について重要な証言を獲得するほうがよいか、それをハカリにかけて決める、ということです。

上記の事件にあてはめると、ある会社が脱税しているか否かは重要なことで、もしそんな不正を働いている企業があるなら、それを暴くことが社会正義であり、また税収の確保という公益も実現できる。そういったことを取材することは尊重される必要がある。
一方、その民事訴訟で争われているのは、会社の株価が下がったことを賠償してほしいという、いわば私的な利益に過ぎない。
最高裁はこういう理屈で、取材の自由のほうが重く、取材源は黙秘してよいとしました。

これを、今回の田原氏の事件にあてはめてみます。
拉致被害者が生存しているか否かは重要なことですが、ここで田原氏が言わんとしていたのは、拉致被害者の救済を担当している外務省の人がどのように考えているかということでしょう。そのことは、興味はあるけど、ことさらに暴かなくてもよいことのように思える。

一方、この民事訴訟がどこまで重要かというと、微妙なところではあります。
拉致被害者の親族の心情は察するに余りあり、私もその救済を日々願う者ではありますが、それでも、上記の最高裁の理屈でいけば、「個人の精神的苦痛」を賠償してくれというのは、会社の株価が下がったのを賠償してくれというのと同様、私的な利益に過ぎないということになります。

結局、言い方は悪いですが、どっちもどっちであり、少なくとも、取材の自由だけを確保すべき要請が高いとも思えない。
ですから結局、田原氏に対する取材テープの提出命令は覆らないと予想しています。

ただ、この裁判の結論として、田原氏が1000万円もの賠償責任を負うことはないでしょう。
田原氏は、「拉致被害者は生きていないだろう」と言っただけで、被害者やその家族を直接的に中傷したわけではない。賠償責任がもし認められたとしても、相当に低額になるのではないかと思えます。

少々ややこしい話をしましたが、とりあえずこの問題については以上で終了します。
発言が問題となったテレビ番組については、私は見ていないので、もし私の理解に欠けているところがあれば、メール等にてご教示ください


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平成23年1月追記

田原氏の抗告を受けて、大阪高裁は提出命令を覆しました。
私の予想は外れたことになりますが、取材源の秘匿の重要性をそれほどに認めたこと自体は、望ましいことのように思えます。
本文に書いたことは、あくまで私の個人的見解としてお読みください。

前回の続き。
神戸地裁が田原総一朗に取材テープの提出命令を出したところ、田原氏側が抗告で争った。

田原氏に言わせれば、取材源(どこから得た情報か)は秘密である、それが特定されるようなテープは公開できない、そんなことをすればジャーナリストとしての信頼が失われ、取材活動ができなくなる、それは報道の自由をおびやかすことになる、ということだと思います。

ただ、常識的に考えると、自ら裁判で「外務省の人もそう言っていた、取材テープもある」と主張した以上、その提出を命じても良さそうです。「テープは出さないけど、ホントにそう言ってたんだ」と言われたら、誰だって、そのまま信用してよいかどうか、疑問に感じるでしょう。

私たち弁護士も、民事訴訟で第三者の発言を引用することがありますが、その際には常に、訴訟の相手から「その発言の元を明らかにせよ」と言われることを想定して、証拠はいつでも出せるようにしておきます(例えばその発言者に、いつでも証人として証言してもらえるよう内諾を得ておくなど)。それができなければ、通常、「誰々がこう言っていた」などという主張はしません。

ですから、「俺はジャーナリストだ」と言うだけで、発言の元は一切明かさなくてもいいとか、それでも訴訟の上で不利に扱われないとかいうのも、おかしなことであると言えます。

ジャーナリストの言うところの、報道の自由、取材の自由は、確かに私たち国民の「知る権利」にとって重要なものであり、そのために取材源は秘密にしておくというのも一理あります。しかし一方で、民事裁判で問題となっている争点(本件の場合、田原氏の発言がどこまでちゃんとした取材に基づくものであったか)を明らかにするために、裁判所が立ち入って審理することも必要です。

この問題は、民事裁判の前に、取材源の秘匿はどこまで認められるかという、古くから論じられているテーマですが、近年の最高裁は、この問題に一定の結論を出しています。
それについては、次回に続きます。

最近、刑事事件がらみの話が多いですが、今日は民事裁判の話です。
 
ジャーナリストの田原総一朗氏が北朝鮮の拉致被害者について、テレビで「外務省の人も(被害者たちが)生きていないことはわかっている」と発言したことに対し、被害者の家族が、精神的苦痛を受けたとして、1000万円の賠償を求める裁判を神戸地裁に起こしています。
 
この裁判で先週、神戸地裁は、田原氏に対し、発言の根拠となる取材テープを提出しなさいという命令を出しました。
 
小さい新聞記事だったので以下は推測ですが、田原氏はこの裁判でおそらく、自分の発言はきちんとした取材に基づいたものであり、正当な報道だ、ということを主張しているのでしょう。
 
たしかに、こうした問題についてきちんと取材した上で発言したのであれば、それが一部の人に不快感を与えたとしても、表現の自由、報道の自由として許される余地があります。
 
田原氏は、取材したことを証明するために、外務省の人にインタビューした際のやり取りを、一言一句「文字」にして、証拠書類として提出していた。
それに対して、原告(被害者の家族)側は、本当にそんなインタビューをしたのなら、テープそのものを出せと主張し、裁判所はその申立てを認めたのです。
 
これは民事訴訟法に規定のある、文書提出命令という手続きです。
事実を明らかにするために重要な文書(録音テープやビデオなども同様)を、当事者の一方が提出しようとしないとき、裁判所にそれを命じてもらう手続きです。
 
どういう場合に提出命令が認められるかは、民事訴訟法に規定がありますが、自ら「引用」した文書は提出命令の対象となるとされています。「引用」するくらいなら、その文書(テープ)は隠すつもりはないんでしょ、だったら出しなさい、という理屈です。
 
田原氏は「ちゃんとしたインタビューをして、その録音をし、そのテープを文字にしました」と、テープの存在を引用しているので、これは文書提出命令の対象になると考えてよいでしょう。
 
もし、この命令に従わないとどうなるかというと、さすがに、裁判所の人が自宅に踏み込んできて文書やテープを取り上げていく、というようなことはしません。
そんな面倒なことをしなくても、もっと端的に、「命令に従わないのは、そいつがウソをついているからだ」と扱えばよいのです。
 
細かい条文の話は省略しますが、この事件で言えば、「そんなテープは存在しない、きちんと取材したなんてウソだ」という原告側の主張を正しいものとして扱うことになり、田原氏は不利になります。
 
田原氏は、テープを提出すると、取材に応じた外務省の個人が特定されることになり、これでは「取材源は明かさない」という報道の自由の根幹が侵害されるとして、命令を取り消せという手続き(即時抗告)を行ないました。
 
こういうときに取材の自由、報道の自由がどこまで守られるべきかについては、難しい問題もありますが、そのあたりは次回に検討したいと思います。
前回の続き。

小沢一郎が検察審査会の起訴議決に対し、行政訴訟を提起したと書きました。その内容は、「起訴すべきだという議決を取り消せ」ということですが、行政訴訟をするにも時間がかかるので、その判決が下るまでの間に小沢さんは起訴されてしまう。

だから、「取り消せ」という訴えにプラスして、「その裁判の結論が出るまで、起訴議決の効力を凍結させよ」という訴えを起こす必要があります。

これは行政処分に対する「仮の差止め」という手続です。その行政処分が実行されると取り返しのつかない損害が生じるおそれがあるときに、本来の行政訴訟の結論が出るまで、「仮に」行政処分をストップしておくというものです。

18日に東京地裁が却下したのは、この仮差止めのほうです。ですから、小沢さんの起訴そして刑事裁判の動きは今後も粛々と進められていきますが、それと並行して、行政訴訟(起訴議決の取消し)のほうも、審理がされることになるでしょう。

では、そもそも検察審査会の議決に対して、行政訴訟が及ぶのか否か、前回私は疑問であると書きましたが、裁判所はどう言っているか、見てみます。

最高裁は昔、「行政訴訟は及ばない」といったことがあります(昭和41年1月13日判決)。
その理屈は「検察審査会の決議は、国民に直接影響を与えないからだ」ということです。前回書いたとおり、行政訴訟の対象となる行政処分とは、国民に直接不利益を与えるものでないといけないからです。

ただこれは、検察審査会の起訴議決に強制力がなかった(起訴するかどうかはあくまで検察官が決めていた)時代の判例であり、現在の制度を前提にすれば、同じ理屈はあてはまらないと考えることもできます。

他の判例としては、横浜地裁(昭和41年4月6日判決)が「議決の中身まで立ち入った審査はできないが、ちゃんとした手続きのもとで議決が行なわれたか否かは審査できる」と言ったことがあります。手続違反があれば、検察審査会の議決を裁判所が取り消すことができる、ということです。

(たとえば、定数11人の委員のうち3人しか出席していないのに、「11人の出席があって8人が起訴相当と判断しました」などとウソの議事録が作られたときなどは、審査の対象になると言ってよいでしょう)

行政訴訟を起こした小沢さんの弁護士も、当然この判例を知っているはずで、手続違反を主張しているでしょう。

一部の報道によると、議決に立ち会った弁護士が反小沢的だとか、審査会の委員の年齢が不自然に若い(つまり意図的な選任があった)とかいう話もあり、また、詳細は省きますが、起訴議決があった容疑の内容と、検察官が不起訴にした容疑の内容が微妙に食い違うとかいうことも主張しているようです。

小沢さんのことだから徹底的に争うと思われますので、新制度下の検察審査会での議決について、行政訴訟がどこまで及ぶのかという興味深い論点に、最高裁の判断が下されると予想されます。
それはそれとして注目したいですが、本当に無罪を主張するのであれば、本筋の刑事裁判1本で堂々と争えばいいのにな、とも思っています。
小沢一郎が検察審査会の決議に基づき、政治資金規正法違反の罪で起訴されることになりました。これで小沢さんは近いうちに「被告人」となり、刑事裁判を受ける身となります。
 
すでに当ブログでも書きましたが、検察の捜査や事情聴取が小沢さんの身辺に及んだとき、小沢さんは「こんなことは民主主義国家においてあってはならない」と激しく言い捨てました。
しかし検察審査会は、一般の国民から選ばれた11人の委員が、事件を起訴すべきかどうかを多数決で決める制度であり、制度の当否はともかく、極めて民主主義的な制度です。
 
検察に対しては憤っていた小沢さんも、検察審査会の判断なら、素直に従わざるをえないだろうと思っていたら、何と検察審査会を訴え「あの決議は無効だ」と言い出した。
かつて野党・民主党の代表だったころ、選挙前にはニコニコして「国民の生活が第一」と言っていた小沢さんが、国民に牙をむいたわけです。
 
これは私にとっては例えば、「男たちの挽歌」で出所後の主人公(ティ・ロン)をかくまう「いい人」役だったケネス・ツァンが、チョウ・ユンファのハリウッド進出第一作「リプレイスメント・キラー」ではマフィアの大ボス役としてユンファを殺しにかかるのを観たような衝撃です。これは映画の話ですが小沢さんは現実世界で手のひら返してます。
 
で、チョウ・ユンファの話でなくて法律的にこの事態について書かないと、と思いますので、極めて大ざっぱながら解説します。
 
小沢さんが検察審査会を訴えたのは、行政訴訟という訴訟の一種であり、起訴議決を取り消せ、その効力をストップせよ、と主張した。
 
この行政訴訟は、行政処分の取消しを求めて訴え出るもので、ここにいう行政処分とは、お役所の判断であって、国民に直接不利益を与えるものだ、という程度にご理解ください。
典型的には、公安委員会が下す免許の停止や取消し、税務署が下す脱税者への重加算税の課税などが挙げられます。
 
では、検察審査会の起訴議決はこれにあたるかというと、疑問です。検察審査会は、各裁判所に置かれる、一般国民によって構成される委員会であり、そもそも役所(行政)とは異なるからです。
 
それに、起訴・不起訴の判断を行政訴訟で争えるとすれば、検察官がする通常の起訴に対しても行政訴訟が起こせることになってしまいます。検察組織も行政の一部だからです。

しかし、検察官が起訴すれば、あとの有罪・無罪は刑事裁判の法廷で争うべきであって、それを別の裁判官(行政訴訟の担当の裁判官)が横ヤリを入れて「起訴自体を取り消す」なんてことは想定されていないはずであり、現に行なわれていません。
 
そして東京地裁は18日、検察審査会は準司法機関(司法権に準ずる機関)であり、その決議は行政処分でないという理由で、小沢さんの訴えた起訴議決の執行停止の申立てを却下しました。ただ、行政訴訟自体はまだ続くのですが、そのあたりは次回に続きます。
この10月をもって、私が弁護士登録をして10周年となりました。

私も弁護士としてまだまだこれからの若輩者であり、知らないこと、これから勉強すべきことは、たくさんあります。それでも、弁護士登録後すぐのころと、今とでは、仕事ぶりには相応に違いが出てきたと思っています。

この10年で、自分自身、どこか進歩したところはあるか、と問われると、一つだけ言えるかなと思うのは、「わからないことはわからないと、はっきり言えるようになった」ということです。

弁護士である以上、日々いろんな法律相談を受けるわけですが、最初のころは、知らないことを聞かれたとき、「これを知らないのは恥ずかしいのではないか」という懸念があって、知っているふりをしながら曖昧に回答することも、なくはなかったです。

しかし、どんな仕事でも同じだと思うのですが、弁護士も10年やっていると、たいていの事件や相談は、すでに過去に同じようなケースを扱っている。だから、自身が経験した実例を踏まえて、回答することができます。

近年、たいていの知識はインターネットで検索すれば、それなりのことはわかるのですが、「こういうケースは実際に裁判するとこうなる」といった実体験というのは、なかなかネットでは伝えにくいと思います。弁護士の強さというのは、多くの事件を、その当事者とともに体験し、実際に解決したという、その点にあると思います。

もちろん、あらゆる分野に私が対応できるわけではなく、たまには知らない問題も出てきます。ただ、弁護士として当然知っているべき基本的な事柄と、知らなくても恥ずかしいことではない特殊な領域の事柄というのは、だいたい区別できるようになりました。

そして、わからないときは、上記のように、自信を持って「わからない」と言うわけです。そのわからない理由にも色々ありますので、もちろんそれも相談者に説明します。

本当に私が全く知らない場合は(滅多にありませんが)、相談料金は取らずに、別の弁護士を探すように言います。そのほか、法律の解釈が分かれているため結論が微妙だとか、弁護士でなく役所にでも問い合わせたほうが良いとか、いろんな場合があります。

私たちは一応法律のプロなので、法律に関することは、専門家以外の人にでもわかるように伝えるのが職責だと思っています。もしそれができない場合は、できないことを明確に伝えるのと、できない理由を説明すべきだと思っています。それがせめてものプロの良心であると。

そんなことを思いながら、11年目も日々の業務に邁進していきたいと考えております。
当ブログと当事務所を今後ともよろしくお願いします。
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