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大阪市西区・南堀江法律事務所のブログです。
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法律とは関係ないですがG7の話。ご存じのとおり、中川財務相がローマでの記者会見で酩酊状態で答弁したというツッコミどころ満載の一件に触れます。

なぜああいう状態になったかというと、本人の弁によれば、前日から当日にかけて風邪薬を多めに飲んだ。ワインは前日に飲んだ。当日の昼は乾杯のときに口をつけたが、「ごっくんはしておりません」とのこと。

酒飲みのよしみとして一応フォローしておくと、酒乱の政治家はたまにおり、例えば維新の元勲にして第2代内閣総理大臣の黒田清隆などは、酔っ払って自分の妻を斬り殺したそうです(事実かどうかは議論もあるようですが、それくらいの酒乱であったのは事実のようです)。

ともかく、中川財務相の行動の当否をここで論じるつもりありません。
ここでは、「人の言い訳に接する際の態度」について触れます。

この一件を聞いて、私はなぜか、野球の江川卓投手の引退会見を思い出したのです。
江川選手は引退会見で、「腕の痛みを取って動きを良くするために、選手生命を短くするのを承知で、鍼でツボをついた」と涙ながらに語っていました。

時代的には80年代後半のはずで、高校生だった私は、「北斗の拳」とか「魁!男塾」みたいな話だなと、少し感動しました。ところが後日、鍼灸師の団体から「鍼治療にそんな危険なツボとか治療方法は存在しない」と抗議があったそうです。

選手生命と引換えに針治療の道を選択したと言われると、そういうこともあるかと納得してしまいますが、冷静に考えれば、そんな漫画みたいな便利なツボが人体にあるというのは、たしかにうさんくさい。そんなツボがあれば、オリンピック選手は皆それを突くでしょう。ドーピングにも引っかからないわけですから。

中川財務相は、「風邪薬でワインが増殖した」と言い訳しています。薬と酒は一緒に飲んではいけないとよく言われるので、ああそうかな、と思ってしまうかも知れません。
しかし、風邪薬を飲んだだけで、前日飲んだワインが「増殖」するようなことがあるのでしょうか。

私を含めて、世の中の働く人々には、風邪気味だけど酒には付き合わなければならない、という状況は多々あるはずで、風邪薬と酒を同時に飲んだことのある人もザラにいるでしょう。でも、前日飲んだ酒のせいで酩酊が翌日まで続いた人が果たしているのか。
(もしそんなことが起きるなら、高いワインと安い風邪薬を準備すれば、かなり効率的に酔うことができて便利ですが)

そして、人の言い訳や説明を検証してみて、それが腑に落ちないときは、そこには必ずと言っていいほど、その人にとって都合の悪いウソが潜んでいます。それを糊塗するために、不自然な言い訳にならざるをえない。

ということで、批判する意図は別にないのですが、中川財務相は記者会見の前に相当飲んでいたと思います。
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刑事裁判と被害者参加制度について、2つの事件に触れます。

被害者が公判に参加した刑事裁判で、有罪の実刑判決が出た(札幌地裁、10日)。
悪天候下でボートを運転していて同の者を転落させ水死させてしまったという、業務上過失致死の事案です。被害者の父が法廷に参加し、被告人に対して「どう償うつもりなのか」といった質問をし、裁判官に対しては実刑を求める意見を述べたそうです。

判決は、執行猶予ではなく禁固1年6か月の実刑。被告人は刑務所に行くこととなった。
これを被害者参加制度の成果だ、と捉える向きもあるかも知れません。しかし、人ひとり死んでいるわけだし、報道によると被告人は謝罪や賠償をきちんと行っていなかったようなので、もともと実刑判決が下ってもおかしくない事案だったと思われます。

過去にも書いたとおり(過去の記事)、被害者が参加することによって罪が重くなるとすれば(それは反面、被害者が参加しなければ罪が軽くなることを意味する)、制度としてはどうかと思っています。

被害者が法廷に出るか否かは、被害の大きさと必ずしも比例するわけではないからです。
大きな被害を被っても、裁判を静かに見守る人もいるし(私が接した犯罪被害者のほとんどはこのタイプです)、その逆、つまり被害のわりには声だけ大きい被害者も、少数ながら確かに存在する。
この話はすでに論じたので、ひとまずこの程度にします。

もう一つの話題。
東京地裁で、傷害事件の被害者女性が法廷で事件の感想(つまり被害者感情)を述べたところ、逆に被告人からなじられて号泣した、といったことがあったようです。

この一件はまさに、被害者参加制度の問題を浮き彫りにしています。
すべての被告人が、被害者の前で、うなだれて神妙にしているとは限らない。
「俺は無罪だ」などと反撃されるかも知れない。上記事件の被告人は「お前たちは呪われるぞ」と言ったそうですが、事件の内容と関係なく罵られることも考えられる。

そんなとき、検察官や弁護士なら、即座に反論して切り返すことができるでしょう。そういう訓練を受けているし、そもそも何を言われても平気な人じゃないとこの商売は成り立たないからです。でも一般の人はそうは行かない。

被告人がそんな態度に出れば、情状が悪くなるでしょうから、ある意味、被害者参加の目的は達しうるかも知れないのですが、被害者としてはきっと精神的ショックを受けるでしょう。

上記2つの事件から、改めてこう思います。

被害者は裁判に参加しなくても、おそらく適切な判決が下されると思う。だから、法廷なんか出たくないという被害者は、裁判所に任せておけばいい。
一方、法廷に出たい人は、それは被害者の権利であるから堂々とやってよいのですが、やるならそれなりの覚悟を持って、できれば自身の弁護士と入念に打合せをした上で、法廷に望むべきでしょう。
前回、男性として活動している女性が交通事故に遭ったときに、男性を基準としてより高額の賠償額が認められた判決を紹介しました。

では、その逆の場合はどうなるのか、と考えた人もおられるでしょう。
男性だけど女性として活動している、最近特にそういう人が多い気がしますが(少なくともテレビを見ているとそう)、そういう方は、逆に賠償額が下がってしまうのかということです。

実例はまだ存在しないようですが、理論上はありうるでしょう。今後、加害者側が、それを主張して賠償額を減額してくることも考えられる。

もちろん前回書いたとおり、実際の収入を証明できれば、それをもとに賠償金が決まる。
たとえば、はるな愛さんだったら、タレントとしてのギャラが多そうだし、きちんと申告していれば、高額の賠償が認められるでしょう。

一方、場末の「おかまバー」で働いているおかまなんかだと、きちんと申告していないこともあるでしょう。その場合は収入を証明できない上に、女性の平均賃金を適用され、不利になることもありうる。

もっともこの点はおかまに限らず本来的な女性でも同じで、特に水商売の方には多いと思われますが、稼ぎはあるのにきちんと申告していないと、何かあったときに「私はナンバー1ホステスだから年収何千万も稼いでいた」と言っても認めてもらえないと思われます。

さて、かように女性は平均賃金が低いせいで、事故に遭った場合の賠償も(多額の収入を証明できる場合を除いて)低くなるわけです。それは社会通念や事実を反映したものであって、差別的なものでないのは前回も書いたとおりです。

一方、逆に女性が大きく優遇されている場面もあります。
常識的にご存じの方も多いでしょうけど、後遺症として顔にキズが残った場合です。
同程度のキズでも、男性より女性のほうが後遺症の等級は重く認定されるので、慰謝料や逸失利益は女性のほうが断然高くなります。

そしてその点は、その女性が顔を商売道具にしている場合(モデルやホステスなど)であれ、顔と直接関係ない仕事についている場合(内職など)であれ、違いはない。

これを男性蔑視という人はたぶんいないと思います。女性は顔が大切(少なくとも男性よりは)、ということは世間の常識だから、このような扱いがなされているわけです。

ということで、賠償額の算定基準は社会通念をもとに定められているという話でした。
少し前の話ですが、先週の新聞で、弁護士としては極めて興味ある民事事件の判決を読みました。

岡山地裁が、交通事故の被害者女性に認められる損害賠償の金額を算定するにあたって、その女性が性同一障害の方で男性として生活していたことを理由として、男性を基準とした(女性より高額の)損害賠償額を認める判決を出したと。

この判決を聞いて、どうお感じになりましたでしょうか。
同じ事故に遭っても、女性より男性のほうが認められる賠償額が高いということなのか、そもそも交通事故の損害賠償額はどう算定されるのか、といったことについて、触れてみたいと思います。

交通事故で後遺症が残ったりすると、その症状の重さに応じて「等級」が決まっており、それぞれの等級に従った慰謝料の金額が決められている。
(具体的には保険会社や弁護士会でガイドラインが存在する)

慰謝料(精神的苦痛の賠償)のほかにも、後遺症で仕事に支障が出ると収入が下がってしまう。それを「逸失利益」(いっしつりえき)といいまして、後遺症の等級に応じて、「年収の何パーセント」というふうに決まっている。

例えば年収500万円の人に「50%の逸失利益」が認められると、「年間250万円×67歳になるまでの残り年数」が賠償額となる。67歳というのは、平均的な人が働くことのできる上限の年齢です(実際はこれを一括払いしてもらうので利息分は差し引くことになるのですが、細かくなるので省略)。

このように、後遺症が残ったときの賠償額の算定には、「その人の年収」が重要な要素となる。
年収は、確定申告書とか源泉徴収表など公的なもので証明するのですが、中には証明手段がない人もいるし、主婦や学生は申告所得がない。
そういう場合に賠償額がゼロというのもおかしいので、「平均賃金」を根拠に算定することになります。

平均賃金は、厚労省がデータを集めていて、性別や学歴に応じていろんなパターンの平均賃金があり、その中からその被害者に一番近いものを採用することになる。
この場合、男性のほうが女性のほうより平均賃金が高いのは、データ上も明らかな事実です。男性のほうが賠償額が高いのは、事実を反映したものであって、差別的な意図はない。

冒頭の事故の被害者は、戸籍上は女性なのに実態は男性として活動していたということです。
新聞記事によると、ホルモン治療もしていたとのことで、男性として就労していた実態もあったのでしょう。
客観的基準を重視しつつその中でなるべく実態を反映させようとした判決として、注目に値すると思われます。

次回、損害賠償額の算定における男女差について、もう少しだけ触れる予定です
いきなりローカルな話ですが、昔、上本町に「あなたの会社にデイトレーダーを派遣します!」という看板を掲げて仕事をしているオフィスがありました。

デイトレーダー。株なんかを買って、値が上がればその日のうちに売って差額を稼ぐことを「デイトレード」といいますが、そういった投資手法でお金儲けする人たちのことを言います。

しかしデイトレーダーを派遣すると言われても、「おっ、ウチの会社、ちょうどデイトレーダーを探してたんだよね」という人が世の中にいるんだろうか、と、自転車で出勤する道すがら、その看板を見ていつも思っていました。
ほどなくそのオフィスはなくなり、今その場所はラーメン屋になっています。

さて今週、そんな昔の話を思い出すようなニュースがたくさんありました。

「L&G」という団体の波容疑者が組織的詐欺罪(組織的犯罪処罰法違反)で逮捕(5日)。
「円天」とかいうよくわからないシステムの他、お金を預けると配当がつくという名目で出資を募っていたとか。
(逮捕前の朝の6時から居酒屋でビールを飲んでいたというのもすごいです。そういう状況で酒に頼るとは、意外に小心者かも知れません)

昨日(6日)は、大阪で知人らから出資を募っていた「女相場師」が逮捕。
一般の人が投資名目で他人からお金を預かる商売をすると出資法違反となり、それで逮捕されたとのこと。投資に失敗してお金が返せないとわかったあとも出資させた疑いもあり、詐欺罪で立件される可能性もあるとか。

一方で、村上ファンドの村上被告人は、東京高裁で執行猶予判決(3日)。1審の実刑判決が覆った。追徴金約10億円は科せられますが、これも1審より少し減っています。

村上被告人がやったのは、詐欺でも出資法違反でもない。ライブドアがニッポン放送の株式を大量取得する(つまりニッポン放送の株の相場がこれから上がる)という内部情報を堀江元社長から聞いた上で、ニッポン放送株を取得して高値で売り抜けたという、証券取引法違反(現在の名称は金融商品取引法)のインサイダー取引です。

村上ファンドが世間を騒がせていた当時は、すごく優秀なデイトレーダーであるという評価もありますが、どちらかというと「カネにモノを言わせて会社をかき回すけしからんヤツ」というのが世間一般の見方であったかと。
野球の星野元監督は「いつか天罰が下る」と言い(そして実際下りました)、浜村淳は朝のラジオで「萩本欽一みたいな顔して」と言ってました(こちらは本筋に関係ありませんが)。

ただ刑事裁判においては、萩本欽一みたいな顔のわりに偉そうなこと言ってるとかいうことではなく、あくまで、ニッポン放送株の一件でちょっとズルして儲けたことが問われています。
それだけを冷静に判断すれば、追徴金による経済的制裁で充分で、刑務所に行かなくてよい、という結論もありうるのでしょう。

世界的な不況で世の中の投資家が全く力を失ってしまっている今、村上ファンドに対して、改めて冷静に判断を下したのが今回の判決なのでしょう。
インターネット上の名誉毀損について。
ある人がホームページで、某ラーメンチェーン店の収益の一部がカルト教団に流れていると書いたことが、名誉毀損罪にあたるかどうかが争われた事件。

東京地裁では無罪とされた事件で、先週末、東京高裁は逆転有罪(罰金30万円)の判決を出した。

名誉毀損罪については当ブログ(および旧ブログ)でもたびたび取り上げていますが、
「具体的な事実を指摘して他人の名誉を傷つける」行為を言い、ラーメン屋の収益がカルト教団に流れているというのも、いちおうそれに当たるでしょう。

東京地裁は、「インターネット上の情報は、その他のメディアでの言論に比べ、信用性が低いので、違法性は低い」として無罪とした。東京高裁は、そんなことはない、中には信じる人もいるでしょう、と言ったわけです。

インターネット上の情報はたしかに玉石混淆で、「石」のほうが圧倒的に多い。しかし、情報を伝達する力としては、インターネットには物すごいところがある。

たとえば、特定の個人を中傷するビラを100枚作って配っても、その情報を伝えることができる相手は100人です(ビラが回し読みされても、100人を大幅に超えることはないでしょう)。

インターネットなら、自分のホームページやブログに書くだけで、最近は「検索」で多数の人が閲覧にくる可能性がある。インターネット上の情報を真に受ける人が100人に1人しかいないとしても、1万人の人が閲覧すればすぐ100人に達し、さらに増え続けるでしょう。

そういうことで、東京高裁の有罪判決のほうが個人的にはしっくり来ると思いました。
特に、インターネット上で無責任な個人の批判や中傷が横行している昨今、そんな行為は本当は犯罪なのだと警鐘を鳴らす意味もあると思う。

もちろん、有罪とされた方は不服でしょう(弁護人は最高裁に上告するらしい)。
ネット上での個人批判が許されないとなれば表現の自由はどうなるのだ、ということです。
この点、表現の自由の観点からは、公共性、公益性があり、真実である(または真実らしい証拠がある)場合は無罪とされるので、正当な言論は保護されることになる。

ただ、それ(公共、公益、真実)が認められるかどうかは、結局、刑事裁判をやってみないとわからないので、表現する側にとっては「どっちに転ぶかわからない」危うさがある。
しかし、人を攻撃・批判するからには、それくらいの覚悟を持って発言すべきなのだろうと思いました。

ひとまず、最高裁の判断に注目したいと思います。
最近雑感続きですので、法律ネタを増やしていきたいと思います。

少し前に、タレントの羽賀研二の詐欺・恐喝未遂事件で大阪地裁が無罪判決を出したことに触れました。その決め手の一つとなったのは、公判の最後になって出てきた弁護側証人が、羽賀研二は騙していない(安い株を騙して高く買わせた事実はなく、被害者側はもともと安い株だとわかっていた)、と証言したことです。

ところが少し前に一部新聞で、それが実は「偽証」であって、その証言をした人を偽証罪で立件すべきか否か、大阪地検が検討している、といった報道がされました。

この証人が偽証したのかどうか、事件や裁判の内容を詳しく知らないので、今は何とも言いようがありません。ここでは、偽証罪とは何かという一般論について触れます。

偽証とは、ウソの証言をすることです。
民事事件でも刑事事件でも、法廷で証人として証言するときは、「うそをつかない」という趣旨の宣誓書を書いた上で、法廷の証言席で起立して宣誓させられる。その上でウソをつくと、偽証罪という犯罪になります。

どの程度の罪になるかというと、懲役3か月から10年です(刑法169条)。
ウソをついたというだけで懲役10年がありうるので、けっこう重い犯罪です。

では、「宣誓した上でウソをついたら犯罪になるというのなら、最初から宣誓などしない」と、宣誓することを拒絶するとどうなるか。
そういう変な度胸がある人を私はこれまで見たことはありませんが、民事訴訟法には、宣誓を拒絶すると10万円以下の罰金が科せられると規定されています(201条、192条)。

かように、証人になるというのは厳粛なことなのですが、ただ、法廷でウソをつくと必ず懲役刑になるのかというと、実際はそうでもありません。偽証のすべてについて警察がいちいち動くわけではない。

ここでとあるデータを見ますと、
10数年前の数字ですが、1年間のうちに、偽証罪で逮捕される人は3人だそうです。
比較してみると、殺人罪で逮捕された人は約1200人、窃盗罪なら約16万人です。
偽証罪の年間3人というのが際立って少ないことがわかると思います。
つまり、よほどの重大事件で大ウソをついたときに限り、偽証罪として立件されるようです。

それでも、やはりウソをつきとおすのは困難であり、偽証罪にならなくても裁判上で不利になることは多いと思うので、正直が一番です、と無難にまとめました。
少し前に、中央大学の教授殺害事件に絡んで、
人前で容易に涙を流す人が増えたということ、何でもすぐに説明して欲しがる人が増えたことを感想としてお話ししました。

その続きを書こうとしているのですが、以下、非常に底の浅い考察になってしまいましたので、よほどおヒマなときに呼んでくださればと思います。

最近、テレビでも映画でも「泣ける」ことを売りにするものがやたら増えていて、それがそこそこ受け入れられているということは、「泣きたがり」「感動したがり」が増えていることを意味すると思うのです。

いつごろからこうも泣きたがりが増えたかというと、90年代だと思います。
一つの大きなきっかけとなったのは、私の考えでは、ディカプリオの映画「タイタニック」(平成9年(1997年)日本公開)です。この作品、最初は「スペクタクル大作」という宣伝をされていたように思うのですが、観てみたら「けっこう泣ける」ということで評判になり、日本だけでなく世界で空前のヒットとなった。

映画業界の人は、これからは「泣ける」映画や番組が売れると思ったでしょう。それ以降の映画の宣伝では明らかに、いかに「泣ける」かが宣伝文句になりました。(このあたりの話の補足は後述)

もちろんその傾向はテレビにも波及して、泣ける番組がもてはやされるようになった。
ドキュメンタリー番組でも、たとえば取材を受けた人が感極まって泣いたりすると、いい映像が取れたということでオンエアする。取材を受ける側は、泣けばマスコミが味方になって取り上げてくれると思うようになった、というわけです。

何でも説明を求める傾向もそうです。
世の中のあらゆる出来事や事象にはわかりやすい説明があって、誰かがそれを説明してくれないと気がすまない人が多い。

でも、「どうしてこういう事件が起こったのか、その真相と動機を明らかにしてほしい」という人が多い反面、自らその事件の裁判の傍聴に通ったとか、刑法や心理学を勉強したとかいう人はまずいないでしょう。「説明」は、テレビかインターネットか、どこかの偉い人が、聞いて易しくわかるように説明してくれると思っている。

これも、テレビ的なものの影響と、さらには、事件と謎にはすべて明確な回答が存在する、RPGなどのテレビゲームの影響かも知れない。

と、そんなことを最近、中央大の事件とは無関係に、あくまで一般論として感じていたのです。いつか書きたいと思っていたので、思考がまとまらないままに乱雑に書いてしまいました。

終わり。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これ以降は、本論とは関係なく、私個人の趣味で書いていますので、映画好きでない方は読み飛ばしてください。

「タイタニック」以前は、そこまで泣けることを前面に出した宣伝はなかったように思います。

例えばジャッキー・チェンの映画にも、じっくり観てみると意外に泣けるものがあって、「奇蹟 ミラクル」(1989年(平成元年)日本公開)という作品は、ひょんなことからマフィアのボスになってしまった主人公が、ある老婆とその一人娘を幸せにするために奔走するという、今ならまさに泣ける路線で売られそうな作品なのです。
でも当時はまだアクション全盛で、特にチョウ・ユンファの「男たちの挽歌」(昭和62年(1987年)日本公開)の影響もあり、ギャング映画のような売られ方をしていた。

そういう傾向が変わる前兆はありました。
シュワルツェネッガーは80年代、筋肉とアクション一辺倒の映画ばかり作っていたけど、90年代に入って、幼稚園児たちとの触れ合いを描いた「キンダガートン・コップ」(1990(平成2年)日本公開)とか、悪者のターミネーターが正義の味方になってやはり少年との心の交流を描く「ターミネーター2」(1991年(平成3年)日本公開)があって、感動させる路線が現れ始めた。

いま考えると、映画の売られ方の路線の変更時期は、バブル経済が疲弊から崩壊に至る時期とほぼ一致していて、人の「心の疲れ」というものが背景にあったかも知れません。
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